≪「事実」はたしかに、作家にとって゛取り扱い注意゛
の危険物である。だが、「現実感」を付与するだけでなく、読者
の社会的な関心を挑発して活力を与える源泉でもある。小説は「
路上を持ち歩く鏡」だ、というよく知られた定義が誰の言葉か私
は知らない。しかしそれは、小説というジャンルがもともと,市
民社会のスキャンダルを映し出す機能を持っていたことをしめし
ている。スキャンダルへの「のぞき趣味」を喚起するからこそ、
小説という新参者は、,近代市民社会の中心的な文学ジャンルと
して成り上がったのである。小説は、詩や演劇や物語といった由
緒来歴の正しいジャンルに対して、もともとうさんくさくていか
がわしい成り上がりものなのだ。≫
井口時男『八十年代以後―大江健三郎と中上健次』(「新潮」3月号)
■「小説」はスキャンダルであるーーー雨宮処凛という作家
井口時男が言うように、小説とは、スキャンダルへの「のぞき趣味」を喚起する「うさんくさい」「いかがわしい」表現ジャンルである、というのは,今更繰り返すまでもなく、まことに正しい。しかし,その小説というジャンルもまた、そのあまりにも華々しい成功の結果、今やその代償として滅びようとしているらしい。つまり、小説はスキャンダルへの「のぞき趣味」というような「下品な」「いかがわしい」「うさんくさい」表現形式と決別し、「事実とフイクション」の区別をわきまえた「高級な読者」しか相手にしない上品な「文学趣味」に堕落しつつある。これこそが文学の危機であり、小説の危機である。
井口は、三島由紀夫も大江健三郎も、スキャンダル好きの作家であり、自らの作家と言う存在性をいかにしてスキャンダル化するかに全精力を傾けた作家たちだった、と言う。三島由紀夫の『青の時代』や『金閣寺』、あるいは大江健三郎の『セヴンティーン』のような作品を思い出すまでもなく,また三島由紀夫のボディービルや写真集や映画出演、そして究極はその切腹・介錯の自決事件等を思い出すまでもなく、その言う通りだろう。つまり、小説は、スキャンダルへの「のぞき趣味」と,作家という存在をスキャンダル化する力を失った時、その社会的な挑発力を失い、一種の古典芸能化するだろう。今が、そういう時なのだろうか。そうだという人は少なくないが、私はそうだとは思わない。
たとえば、昨今の論壇や新聞やテレビでは、同時多発テロやイラクや北朝鮮をめぐって活発な議論が闘わされている。一見,論壇や新聞は思想的に活況をていしているように見える。しかしはたしてその活況は、ホンモノだろうか.。そこに思想的極限を生きる熱狂とスキャンダルがあるだろうか。私はないと思う。
というのは、雨宮処凛という女性作家(私はまだその小説を読んだことがないが…??)の連載エッセイ「『北』の国から」(「群像」1月号)を読むと、一見、華々しく見えていたはずの論壇や新聞やテレビの戦争談義や宣戦布告…話が、たちまち色あせてしまうからだ。私は、今頃になって,カメラやパソコンを抱えて北朝鮮に行ったり、イラクに行ったりするジャーナリストがあまり好きではない。彼等は「医者」ではあっても「患者=病人」ではない。ニューヨーク同時多発テロの時、ニューヨーク滞在中のはずだったが、その時に限ってたまたま帰国して留守だった柄谷行人の、「タイミングの悪さ」を言っているのではない。柄谷行人の場合、むしろその「ズレ」はそれ自体が事件(病気)である。柄谷行人は、ネズミが沈没する船からそれを予知して逃走するように、本能的に危機を直感して現場から逃走したのかもしれない。というのは冗談だが,それに対して、開戦直前になってから意気揚揚と戦場(?)へ向かうジャーナリストには正義感や使命感はあっても、ホンモノのスキャンダルやスキャンダルへの「のぞき趣味」はない。つまり「下品さ」と「うさんくささ」と「いかがわしさ」がない。
しかし、雨宮にはそれがたっぷりある。なぜなら、事件は、雨宮自身の中で起っているからである。つまり雨宮自身が事件の当事者であり、雨宮処凛は戦場=現場の人なのである。雨宮も、面白半分に、のこのこイラクまで出かけて行き、「人間の盾」になろうとしているらしいが、あくまでも雨宮はそれを見物している野次馬ではない。雨宮のエッセイは、次のような文章から始まっている。
≪「有本さん拉致で『よど号』支援者宅など全国30か所捜索――英国留学なかの1983年,神戸市出身の有本恵子さん(失踪当時23歳)がよど号グループの安部(現姓・魚本)公博容疑者(54)=結婚目的誘拐容疑で国際手配=らに北朝鮮に拉致された事件で、警視庁公安部は17日午前、同容疑で全国のよど号グループの支援者宅などを一斉捜索した。(後略)YOMIURI ON LINE 02年10月17日」/日朝会談からちょうど一ヶ月後の一〇月一七日、新聞やテレビでこんな報道がなされたことを御存知だろうか。あれは、私だ。うちに来たのだ。警視庁のガサ入れが。≫
私は、雨宮の思想的立場を肯定する気も擁護する気もない。だが、ただこういう文章を、文芸誌で読めたことはうれしい。文芸誌もまだまだ捨てたものではないと思う。
雨宮はあくまでも現場=戦場の人である。北朝鮮とのかかわりについては、次のように書いている。
≪そんな私に捜査員が声をかける。/「北朝鮮でよど号グループと会ったことがありますね?」/私は頷いた。そうだ、私は今まで五回北朝鮮に行き、よど号グループと会った。九九年二月,一一月、〇一年三月、五月、そうして〇二年六月の五回にわたって訪朝したのだ。数年前、新宿のロストプラスワンにイベントを見に行ったら元赤軍派議長の塩見孝也氏が若い奴に「北朝鮮に行こう」と誘いまくっていて、なんだか面白そうだから行ったのである。ちなみに私にとっては初めての海外旅行だった。最初の訪朝で、よど号グループの娘たちと仲良くなって、それから北朝鮮に行くようになったのだ。≫
私は、まず何よりもこの文章がいいと思う。力強く、しかも洗練されている。決して単純素朴な体験談ではない。ここには強靭な思考力に裏打ちされた自己認識と自己批評がある。私は、これを読みながら、柳美里がかつて「新潮45」に連載し、物議を醸した連載エッセイ『仮面の国』を連想した。それ以来の新しい才能の登場と言っていいのではないか。ちなみに、雨宮のプロフィールには「元右翼活動家」とある。「パンクロック歌手」「ミニスカ右翼」という肩書きもあるらしい。そして映画『新しい神様』主演。小説やエッセイに『暴力恋愛』『自殺のコスト』『アトピーの女王』がある、という。私は、いずれも読んでいない。だが、かなり、というよりそうとう「うさんくさい」「いかがわしい」作家の登場といっていい。
■島田雅彦、笙野頼子、平野啓一郎,車谷長吉…
作品よりも作家そのものが大事だ…という作家がいる。かつては森鴎外や夏目漱石がそうであり、近くでは、三島由紀夫や大江健三郎がそうであった。むろん、そういう場合でも作品はどうでもいいというわけではない。ただ、作品はむろんのこと、それ以上に作家という存在が「何かを意味している」ということである。今、そういう作家がいるだろうか。私は、いると思う。
島田雅彦がそうであり、平野啓一郎がそうであり、笙野頼子がそうである。むろん、車谷長吉がそうであるのは言うまでもない。私は、そういう作家の場合は、存在そのものにスキャンダル性が秘められているのだと考える。
島田雅彦の『エトロフの恋』(「新潮」1月号)。平野啓一郎『高瀬川』(「群像」1月号)。笙野頼子の『水球』。車谷長吉の『三笠山』(「文学界」1月号)、『古墳の話』(「群像」2月号)。これらの作家たちは、明らかに作家存在そのものが現実的で、スキャンダラスである。言いかえれば、自らの判断と決意でそういう「作家的存在」を作り上げようとしている作家たちである、といって言い。
私は、くわしいことは知らないが、島田雅彦は、先ごろ後に皇太子妃になる女性と恋に落ちる…というストーリーの小説『美しい魂』を書き上げ、すでにケゥ藝・蠅泙能侏茲討い燭里砲發・・錣蕕此・睛討・嵒垠鼻很簑蠅砲・・錣襪箸いΔ海箸如◆岷ν磴・蕕遼塾蓮廚魘欧譴峠佝任鮹杷阿靴拭△箸いΑ・い・砲眦臈腸輊Г蕕靴は辰世・△海痢悒┘肇蹈佞領・戮呂修梁格圓砲△燭襪蕕靴ぁ
恋をしてはいけない相手に恋をして、エトロフへ逃亡する「カヲル」が主人公である。なぜエトロフなのか。それは、「わが国固有の領土」として、「北方領土返還運動」とかかわっているからだ.。カヲルは、この島に住み、そこから日本人へ、つまり恋の相手であった「不二子」へメールを発信し、問う。
≪天皇もいない、日本という国もない,田んぼさえもなかった昔の話をしてもいいですか?人々がまだ石器を使い、狩猟採集の暮らしをしていた、およそニ万年前の話です。私たちの遠い祖先に当たる狩人たちは大陸、サハリン、北海道、そして本州を自由に行き来していました。≫
≪過酷な自然の中で暮し、熊を神の化身と崇めていた種族に代わって,戦争を勝ち抜いてきた別の種族が狩猟民を駆逐し,大集団で定住を始めると、ムラができ、クニができました。彼らは熊に代わる新たな神を人間の間から選び,王と呼びました。天皇の祖先もその王の中の一人だったでしよう。新たな王とて、自然への恭順は忘れませんでした。自分たちが滅ぼした自然への神への祈りも祭祀に取り入れたのです。天皇家の方々が自然科学、それも生物学を学ばれるのは、小林秀雄のことと無縁ではないでしょう。私たちはいかなる自然の元に暮らしているのかを知ることこそが天意に近づくことになるのです。先住民たちはもうこの島にはいません。彼らが何処へ行ってしまったのか、誰も知りません。≫
≪私はあなたを愛し、あなたの夫君たる殿下を敬っています。いつかあなたと殿下がこの島で呼吸すされる日が来ることを願っています。≫
. これらの引用からも明らかなように、島田雅彦は、この小説で、多くの問題を提起し、われわれ日本人を挑発しようとしている。それは、当然この小説の文体にも投影されている。うがった見方をすれば、この「不二子」への恋は、数年前、週刊誌を賑わせた島田雅彦自身の恋愛・不倫騒動が投影されているのかもしれない。いずれにしろ、島田雅彦らしい、いかにも挑戦的な、スキャンダルを自ら演出して行くかのような作品である。
平野啓一郎も、作品以上にその作家的存在が注目されている作家だが,今回の作品には、その面影はない。笙野頼子や車谷長吉,島田雅彦の作品が相変わらずスキャンダラスなのに、つまり現実との緊張関係を保持しているのに対して、平野啓一郎の作品には、現実性もスキャンダル性も希薄である.。私は、平野啓一郎のヨーロッパを舞台にした歴史小説や芸術家小説が嫌いではない。そこには、極限状況追いつめられた人間が描かれている。言いかえれば、そういう小説の場合、素材そのものがスキャンダラスなのだ。しかし、日本を舞台にし、自分自身を主人公にし始めると急にスキャンダル性が消え、平凡になっていく。
『「高瀬川』は、大学在学中に文芸誌に投稿した作品でデビューし、職業作家として活躍する新鋭作家と、その作家の元にインタビューに来たフアッション雑誌の女性編集者との出会いを描いた一種の私小説的な恋愛小説である。しかし、この小説は珍しく日本を舞台にし、しかも平野啓一郎自身とおぼしい人物を主人公にしているにもかかわらず、現実感が希薄だ。なぜだろうか。やはり、作品の中味・素材と文体がマッチしていないからではないか。この文章は、文章のための文章、つまり美文である。
≪薄暗い廊下を抜け、ドアの上に赤いランプの点滅しているその部屋に這入ると、入り口の左手から、いきなり、「イラッシャイマセ」という奇妙なアクセントの声が聞こえ、二人を驚かせた。備え付けの自動精算機がドアの開閉に反応したらしかった。声は、こうした場所を訪れる男女を気遣うかのように,振り返らず,壁に向かってまっすぐ前を向いたまま発せられたが、それがいかにも唐突で、しかも、業者がせっていを誤まったのではと訝られるほどに大きな音だったので,二人には、何か警報めいた,不気味な響きとして感ぜられた。≫
小説は、こんな調子で始まるのだが,この二人の男女に似つかわしくない古風さと堅苦しさをか感じられる。これは、島田雅彦と比較して、平野啓一郎が、「自分を語る」「私を描く」ことに躊躇しているからではないか、と思われる。それは、外国を舞台に,外国人を主人公にしている時には免れていた欠陥だろう。
■事実は復讐する…・・「小説」のスキャンダル性
さて、「群像」が,新編集長の元で、大幅にリニューアルした。おそらく創刊当時から続いていたはずの「創作合評」をあっさり廃止し、受験マニュアルのような小説講座(「現代小説・演習」)や、二人がセットになった手軽な文芸時評欄(秋山駿と永江朗)を新設するなど、あの重厚長大な「群像」からは想像できないような、かなり大胆な変身と言っていい。当然のごとく、かなり厳しい辛辣な批判も耳にするが、そして私もその批判にはおおむね賛成なのだが、しかし私はそのこと自体にはあまり関心がない。古い伝統的な文芸誌形態を保持しようとすることも、リニューアルして新しい時代の若者文化や大衆文化に媚びようとするのもたいして違いはない。問題は「文学や小説の本質とは何か…」である。
問題はどこにあるのか。「群像」のリニューアルを批判していればそれでいいのか。恐らくそうではない。私の考えでは、いみじくも井口時男が、『八十年代以後―大江健三郎と中上健次』(「新潮」3月号)で言うように、かつての小説が持っていた「スキャンダル性」を、現代小説だけではなく、文芸誌そのものが失いつつあるということが問題である、と思う。その意味で考えれば、新生「群像」がそのスキャンダル性を取り戻そうとねらっているかぎり、リニューアルは成功なのである。
たとえば、最近、文学関係者の間で、自明の真理のごとくよく言われることだが、「小説はフイクションである」という命題がある。そう言った瞬間に何か大事なものが失われるのだが、この問題を深く追究する人はいない。ということはフイクションの本質が忘れられているということだ。「小説はフイクションである」と言うことによって失われるのは、生活や事実に密着したスキャンダル性である。この命題を主張する事によって、作家も批評家も、メタ・レベルの安全地帯に逃避し、小市民的な「芸術と生活の二元論」を満喫することができる。しかし、そこで読者は、そういう作家を見限り,文学から離れて行くのである
たとえば、読者から「あの小説は事実ですか」と問われて、作家が平然と、「フイクションですよ。小説ですから。」と言った瞬間に、作家たちは、小説にとって、何か一番大事なものを切り捨てている。そして、読者は、その二元論の嘘に敏感に反応するのである。たしかに小説はフイクションだが、しかし単なるフイクションであってはいけないのである。なぜか。文学や小説におけるスキャンダル性の根拠は、事実であり、現場であり、実践の場所だからだ。それに対して、作家にとっては書くことが現実であり、現場であり、実践であると主張することは容易だが、しかしそこには多くの場合,自己欺瞞が隠されている。
井口時男は、三島由紀夫の『宴のあと』のプライバシー裁判や、最近では柳美里の『石に泳ぐ魚』裁判などで、文学者たちが文学防衛の為に使うこのフイクションの論理の欺瞞性を抉り出し、批判している。
≪「事実」の側からの異議申し立てを斥けようとして、文学は、小説は作家の想像力の所産であって、現実世界とは次元の異なる自立した言語空間、すなわち「虚構」なのだ。「事実」の水準と「虚構」の水準とを区別せよ、と主張する。実際三島もそのように主張した。しかし文学が自己弁護のためにもちいるこの論理は、結果的には自分の首を絞める。川嶋(山崎註―文芸評論家・川嶋至)のいうように、「小説は虚構であるという主張は,逆に虚構になぜ事実を、その特定の事実を必要としたかという反問によって,追いつめられることになる」からである。現にその小説が「事実」に依存していることは、作家の想像力が自力で飛翔もできず、小説が自立した言語空間たりえてもいないことの証拠となってしまうのだ。このとき、「事実」は想像力にとって、自分の弱点を証し立ててしまう「急所=恥部」になってしまう。≫
鋭い指摘というほかはない。小説は作家の想像力の所産であり、当然それはフイクション(虚構)であると言いながら、その裏で作家は事実や現実的事件に深く依存している。つまり、これは事実だよ…、事実として読んで欲しいと願っている。読者もまた、それは事実であろう…と期待しながら読んでいる.。作者と読者の間には、お互いに暗黙の了解が成立している。
では、なぜ作家は、事実に依存しながら、小説は事実ではなく「虚構=イクション」だというのか。それは、小説のリアリテッィの根拠が事実に深く依存せざるをえないという自己矛盾と、事実に対する責任を回避するためである。井口は、さらに、川嶋至についてこう言っている。
≪彼はたしかに文学の秘め匿したい「急所=恥部」をあばいたのだ。しかしその成功は、いわば,不幸な成功だった。端的にいえば、川嶋至はこの仕事の結果、文芸ジャーナリズムで書く場所をうしなった≫
むろん、私は、川嶋が「文芸ジャーナリズムで書く場所をうしなった」かどうかを問うつもりはない。
むしろ、私がここで問題にしたいのは、川嶋至の仕事が、川嶋を文芸ジャーナリズムからの引退に追い込むほどの、それだけの兇器であったと言う事実の方だ。それに比較して、「文学批判」や「文壇批判」を繰り返しながら、いつまでも文芸ジャーナリズムで、楽しげに歌い踊り続けている昨今の文芸評論家たちは、まだその仕事が不徹底であり、中途半端であると断言せざるをえない。川嶋の仕事が、「根底的な批評」であった証拠は、それが文壇的反発を招き、文芸ジャーナリズムから隠遁を余儀なくされたという事実そのものにある。つまり文学批判や文壇批判を繰り返しながら、文芸ジャーナリズムでわが世の春を謳歌しいる者たちは、それはまだ彼等の批評が、文学や小説の「急所=恥部」に触れていないということなのだ。
■その他、大道珠樹から石原慎太郎,三浦祐之まで…
芥川賞を受賞した大道珠貴のインタビュー(「文学界」3月号)が面白い。大道珠貴は、さかんに私生活の細部を暴露しようとしているが、私はこれは、大道珠貴が作家として生きていくために何が必要かを理解しているからだと思う。これに対して、前回、前々回の受賞者たちの作品には、小説としての作家としての戦略が欠けている。言いかえれば、作家として生きていこうとする意欲が欠けている。つまり作家という存在性を前面に出すことに対する羞恥と躊躇がある。それは当然、作品にも影響している。離婚や別居を軽いタッチでユーモラスに描く長嶋有の『ジャージの二人』(「すばる」3月号)も、電車の中での、何の変哲もない平凡な日常を描く吉田修一の『パパが電車をおりるころ』(「文学界」月号)も、よくまとまってはいるが、結局、前作や前々作の二番煎じ、三番煎じ、つまり同工異曲の作品の枠を越えていない。ここには、作品と作家の境界を、つまり「事実と虚構の二元論」を踏み越える…ことこそ小説である、という作家的意欲が欠如している。作家は作品で勝負する…と言いたいかもしれないが、その発言は実は、作品そのものが文学的兆発力を持たない…という作家的弱さと表裏一体なのである。
評論では、石原慎太郎の「絵」に焦点をてて、作家としてデビューする以前に、絵描きを目指したことがあるという「作家以前の石原慎太郎」を論じた『石原慎太郎のエスキース』(「すばる」1月号)が、抜群に面白い。偏屈な美術教師との出会い、休学。父親との突然の死別…。今まで、あまり語られることのなかった石原慎太郎の「急所=恥部」に触れた秀作である。石原慎太郎論では、これは文芸誌ではないが、佐野真一が徹底的な現地取材をもとに描いた『石原慎太郎のすべて』(「現代」連載中)も見逃せない。二つの石原慎太郎論は、いずれも「作家とは何か」「小説とは何か」を考える上でも貴重な評論である。
三浦祐之の『古事記講義』連載(「文学界」1−3月号)と鎌田東ニの『呪殺・魔境論』連載(「すばる」12−3月号)も貴重だ。中でも、三浦祐之は、先ごろ『古事記』の全訳を完成し、出版したばかりだが話にそれだけの学問的実績に見合うだけの重みと説得力がある。話の中味は、すでにどこかで聞いた話とたいして変わらないように見えるが、何よりも『古事記』という本の研究に長年うちこんできたという実績に裏打ちされた思想的な蓄積と深さが感じられる。
最近、学者先生たちの気軽なエッセイやコラムや対談などが文芸誌にも氾濫しているが、せめてこれぐらいの学問的成果をあげてからモノを言って欲しいと思う。近頃の学生はドストエフスキーを知らない(読んでいない)とか、同時多発テロやイラク攻撃はどうだこうだ…、ブッシュは阿呆だ…というような議論は、どんなシロウト(学生?)にでもできる低俗な、ありふれた議論にすぎない。政治談義『9・11から21世紀は始まった』(「新潮」月号)で、山城むつみが、終始、沈黙がちなのが面白い。それに対して西谷修と丹生谷貴志の「元気さ」がおかしい。明らかに浮いている。
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