|【山崎行太郎web毒蛇通信】 |プロフィール |目次 |日記 |携帯090-9246-0385|携帯メール|パソコン・メール|




BACK TO TOP PAGE

                   


文芸誌を読む!! 『季刊・文芸時評』(「三田文学」連載)


■■■■■■■■■■■■■■■■
■  季刊・文芸時評 2003・春  ■      
■■■■■■■■■■■■■■■■

                   




≪「事実」はたしかに、作家にとって゛取り扱い注意゛ の危険物である。だが、「現実感」を付与するだけでなく、読者 の社会的な関心を挑発して活力を与える源泉でもある。小説は「 路上を持ち歩く鏡」だ、というよく知られた定義が誰の言葉か私 は知らない。しかしそれは、小説というジャンルがもともと,市 民社会のスキャンダルを映し出す機能を持っていたことをしめし ている。スキャンダルへの「のぞき趣味」を喚起するからこそ、 小説という新参者は、,近代市民社会の中心的な文学ジャンルと して成り上がったのである。小説は、詩や演劇や物語といった由 緒来歴の正しいジャンルに対して、もともとうさんくさくていか がわしい成り上がりものなのだ。≫
         井口時男『八十年代以後―大江健三郎と中上健次』(「新潮」3月号)             


■「小説」はスキャンダルであるーーー雨宮処凛という作家

 井口時男が言うように、小説とは、スキャンダルへの「のぞき趣味」を喚起する「うさんくさい」「いかがわしい」表現ジャンルである、というのは,今更繰り返すまでもなく、まことに正しい。しかし,その小説というジャンルもまた、そのあまりにも華々しい成功の結果、今やその代償として滅びようとしているらしい。つまり、小説はスキャンダルへの「のぞき趣味」というような「下品な」「いかがわしい」「うさんくさい」表現形式と決別し、「事実とフイクション」の区別をわきまえた「高級な読者」しか相手にしない上品な「文学趣味」に堕落しつつある。これこそが文学の危機であり、小説の危機である。

 井口は、三島由紀夫も大江健三郎も、スキャンダル好きの作家であり、自らの作家と言う存在性をいかにしてスキャンダル化するかに全精力を傾けた作家たちだった、と言う。三島由紀夫の『青の時代』や『金閣寺』、あるいは大江健三郎の『セヴンティーン』のような作品を思い出すまでもなく,また三島由紀夫のボディービルや写真集や映画出演、そして究極はその切腹・介錯の自決事件等を思い出すまでもなく、その言う通りだろう。つまり、小説は、スキャンダルへの「のぞき趣味」と,作家という存在をスキャンダル化する力を失った時、その社会的な挑発力を失い、一種の古典芸能化するだろう。今が、そういう時なのだろうか。そうだという人は少なくないが、私はそうだとは思わない。

 たとえば、昨今の論壇や新聞やテレビでは、同時多発テロやイラクや北朝鮮をめぐって活発な議論が闘わされている。一見,論壇や新聞は思想的に活況をていしているように見える。しかしはたしてその活況は、ホンモノだろうか.。そこに思想的極限を生きる熱狂とスキャンダルがあるだろうか。私はないと思う。

 というのは、雨宮処凛という女性作家(私はまだその小説を読んだことがないが…??)の連載エッセイ「『北』の国から」(「群像」1月号)を読むと、一見、華々しく見えていたはずの論壇や新聞やテレビの戦争談義や宣戦布告…話が、たちまち色あせてしまうからだ。私は、今頃になって,カメラやパソコンを抱えて北朝鮮に行ったり、イラクに行ったりするジャーナリストがあまり好きではない。彼等は「医者」ではあっても「患者=病人」ではない。ニューヨーク同時多発テロの時、ニューヨーク滞在中のはずだったが、その時に限ってたまたま帰国して留守だった柄谷行人の、「タイミングの悪さ」を言っているのではない。柄谷行人の場合、むしろその「ズレ」はそれ自体が事件(病気)である。柄谷行人は、ネズミが沈没する船からそれを予知して逃走するように、本能的に危機を直感して現場から逃走したのかもしれない。というのは冗談だが,それに対して、開戦直前になってから意気揚揚と戦場(?)へ向かうジャーナリストには正義感や使命感はあっても、ホンモノのスキャンダルやスキャンダルへの「のぞき趣味」はない。つまり「下品さ」と「うさんくささ」と「いかがわしさ」がない。

 しかし、雨宮にはそれがたっぷりある。なぜなら、事件は、雨宮自身の中で起っているからである。つまり雨宮自身が事件の当事者であり、雨宮処凛は戦場=現場の人なのである。雨宮も、面白半分に、のこのこイラクまで出かけて行き、「人間の盾」になろうとしているらしいが、あくまでも雨宮はそれを見物している野次馬ではない。雨宮のエッセイは、次のような文章から始まっている。

  ≪「有本さん拉致で『よど号』支援者宅など全国30か所捜索――英国留学なかの1983年,神戸市出身の有本恵子さん(失踪当時23歳)がよど号グループの安部(現姓・魚本)公博容疑者(54)=結婚目的誘拐容疑で国際手配=らに北朝鮮に拉致された事件で、警視庁公安部は17日午前、同容疑で全国のよど号グループの支援者宅などを一斉捜索した。(後略)YOMIURI ON LINE 02年10月17日」/日朝会談からちょうど一ヶ月後の一〇月一七日、新聞やテレビでこんな報道がなされたことを御存知だろうか。あれは、私だ。うちに来たのだ。警視庁のガサ入れが。≫

 私は、雨宮の思想的立場を肯定する気も擁護する気もない。だが、ただこういう文章を、文芸誌で読めたことはうれしい。文芸誌もまだまだ捨てたものではないと思う。

 雨宮はあくまでも現場=戦場の人である。北朝鮮とのかかわりについては、次のように書いている。

≪そんな私に捜査員が声をかける。/「北朝鮮でよど号グループと会ったことがありますね?」/私は頷いた。そうだ、私は今まで五回北朝鮮に行き、よど号グループと会った。九九年二月,一一月、〇一年三月、五月、そうして〇二年六月の五回にわたって訪朝したのだ。数年前、新宿のロストプラスワンにイベントを見に行ったら元赤軍派議長の塩見孝也氏が若い奴に「北朝鮮に行こう」と誘いまくっていて、なんだか面白そうだから行ったのである。ちなみに私にとっては初めての海外旅行だった。最初の訪朝で、よど号グループの娘たちと仲良くなって、それから北朝鮮に行くようになったのだ。≫

 私は、まず何よりもこの文章がいいと思う。力強く、しかも洗練されている。決して単純素朴な体験談ではない。ここには強靭な思考力に裏打ちされた自己認識と自己批評がある。私は、これを読みながら、柳美里がかつて「新潮45」に連載し、物議を醸した連載エッセイ『仮面の国』を連想した。それ以来の新しい才能の登場と言っていいのではないか。ちなみに、雨宮のプロフィールには「元右翼活動家」とある。「パンクロック歌手」「ミニスカ右翼」という肩書きもあるらしい。そして映画『新しい神様』主演。小説やエッセイに『暴力恋愛』『自殺のコスト』『アトピーの女王』がある、という。私は、いずれも読んでいない。だが、かなり、というよりそうとう「うさんくさい」「いかがわしい」作家の登場といっていい。


■島田雅彦、笙野頼子、平野啓一郎,車谷長吉…

 作品よりも作家そのものが大事だ…という作家がいる。かつては森鴎外や夏目漱石がそうであり、近くでは、三島由紀夫や大江健三郎がそうであった。むろん、そういう場合でも作品はどうでもいいというわけではない。ただ、作品はむろんのこと、それ以上に作家という存在が「何かを意味している」ということである。今、そういう作家がいるだろうか。私は、いると思う。

 島田雅彦がそうであり、平野啓一郎がそうであり、笙野頼子がそうである。むろん、車谷長吉がそうであるのは言うまでもない。私は、そういう作家の場合は、存在そのものにスキャンダル性が秘められているのだと考える。

 島田雅彦の『エトロフの恋』(「新潮」1月号)。平野啓一郎『高瀬川』(「群像」1月号)。笙野頼子の『水球』。車谷長吉の『三笠山』(「文学界」1月号)、『古墳の話』(「群像」2月号)。これらの作家たちは、明らかに作家存在そのものが現実的で、スキャンダラスである。言いかえれば、自らの判断と決意でそういう「作家的存在」を作り上げようとしている作家たちである、といって言い。

 私は、くわしいことは知らないが、島田雅彦は、先ごろ後に皇太子妃になる女性と恋に落ちる…というストーリーの小説『美しい魂』を書き上げ、すでにケゥ藝・蠅泙能侏茲討い燭里砲發・・錣蕕此・睛討・嵒垠鼻很簑蠅砲・・錣襪箸いΔ海箸如◆岷ν磴・蕕遼塾蓮廚魘欧譴峠佝任鮹杷阿靴拭△箸いΑ・い・砲眦臈腸輊Г蕕靴は辰世・△海痢悒┘肇蹈佞領・戮呂修梁格圓砲△燭襪蕕靴ぁ

 恋をしてはいけない相手に恋をして、エトロフへ逃亡する「カヲル」が主人公である。なぜエトロフなのか。それは、「わが国固有の領土」として、「北方領土返還運動」とかかわっているからだ.。カヲルは、この島に住み、そこから日本人へ、つまり恋の相手であった「不二子」へメールを発信し、問う。

  ≪天皇もいない、日本という国もない,田んぼさえもなかった昔の話をしてもいいですか?人々がまだ石器を使い、狩猟採集の暮らしをしていた、およそニ万年前の話です。私たちの遠い祖先に当たる狩人たちは大陸、サハリン、北海道、そして本州を自由に行き来していました。≫  

 ≪過酷な自然の中で暮し、熊を神の化身と崇めていた種族に代わって,戦争を勝ち抜いてきた別の種族が狩猟民を駆逐し,大集団で定住を始めると、ムラができ、クニができました。彼らは熊に代わる新たな神を人間の間から選び,王と呼びました。天皇の祖先もその王の中の一人だったでしよう。新たな王とて、自然への恭順は忘れませんでした。自分たちが滅ぼした自然への神への祈りも祭祀に取り入れたのです。天皇家の方々が自然科学、それも生物学を学ばれるのは、小林秀雄のことと無縁ではないでしょう。私たちはいかなる自然の元に暮らしているのかを知ることこそが天意に近づくことになるのです。先住民たちはもうこの島にはいません。彼らが何処へ行ってしまったのか、誰も知りません。≫  

 ≪私はあなたを愛し、あなたの夫君たる殿下を敬っています。いつかあなたと殿下がこの島で呼吸すされる日が来ることを願っています。≫ . これらの引用からも明らかなように、島田雅彦は、この小説で、多くの問題を提起し、われわれ日本人を挑発しようとしている。それは、当然この小説の文体にも投影されている。うがった見方をすれば、この「不二子」への恋は、数年前、週刊誌を賑わせた島田雅彦自身の恋愛・不倫騒動が投影されているのかもしれない。いずれにしろ、島田雅彦らしい、いかにも挑戦的な、スキャンダルを自ら演出して行くかのような作品である。

 平野啓一郎も、作品以上にその作家的存在が注目されている作家だが,今回の作品には、その面影はない。笙野頼子や車谷長吉,島田雅彦の作品が相変わらずスキャンダラスなのに、つまり現実との緊張関係を保持しているのに対して、平野啓一郎の作品には、現実性もスキャンダル性も希薄である.。私は、平野啓一郎のヨーロッパを舞台にした歴史小説や芸術家小説が嫌いではない。そこには、極限状況追いつめられた人間が描かれている。言いかえれば、そういう小説の場合、素材そのものがスキャンダラスなのだ。しかし、日本を舞台にし、自分自身を主人公にし始めると急にスキャンダル性が消え、平凡になっていく。

 『「高瀬川』は、大学在学中に文芸誌に投稿した作品でデビューし、職業作家として活躍する新鋭作家と、その作家の元にインタビューに来たフアッション雑誌の女性編集者との出会いを描いた一種の私小説的な恋愛小説である。しかし、この小説は珍しく日本を舞台にし、しかも平野啓一郎自身とおぼしい人物を主人公にしているにもかかわらず、現実感が希薄だ。なぜだろうか。やはり、作品の中味・素材と文体がマッチしていないからではないか。この文章は、文章のための文章、つまり美文である。

  ≪薄暗い廊下を抜け、ドアの上に赤いランプの点滅しているその部屋に這入ると、入り口の左手から、いきなり、「イラッシャイマセ」という奇妙なアクセントの声が聞こえ、二人を驚かせた。備え付けの自動精算機がドアの開閉に反応したらしかった。声は、こうした場所を訪れる男女を気遣うかのように,振り返らず,壁に向かってまっすぐ前を向いたまま発せられたが、それがいかにも唐突で、しかも、業者がせっていを誤まったのではと訝られるほどに大きな音だったので,二人には、何か警報めいた,不気味な響きとして感ぜられた。≫

 小説は、こんな調子で始まるのだが,この二人の男女に似つかわしくない古風さと堅苦しさをか感じられる。これは、島田雅彦と比較して、平野啓一郎が、「自分を語る」「私を描く」ことに躊躇しているからではないか、と思われる。それは、外国を舞台に,外国人を主人公にしている時には免れていた欠陥だろう。


■事実は復讐する…・・「小説」のスキャンダル性
 
さて、「群像」が,新編集長の元で、大幅にリニューアルした。おそらく創刊当時から続いていたはずの「創作合評」をあっさり廃止し、受験マニュアルのような小説講座(「現代小説・演習」)や、二人がセットになった手軽な文芸時評欄(秋山駿と永江朗)を新設するなど、あの重厚長大な「群像」からは想像できないような、かなり大胆な変身と言っていい。当然のごとく、かなり厳しい辛辣な批判も耳にするが、そして私もその批判にはおおむね賛成なのだが、しかし私はそのこと自体にはあまり関心がない。古い伝統的な文芸誌形態を保持しようとすることも、リニューアルして新しい時代の若者文化や大衆文化に媚びようとするのもたいして違いはない。問題は「文学や小説の本質とは何か…」である。  

問題はどこにあるのか。「群像」のリニューアルを批判していればそれでいいのか。恐らくそうではない。私の考えでは、いみじくも井口時男が、『八十年代以後―大江健三郎と中上健次』(「新潮」3月号)で言うように、かつての小説が持っていた「スキャンダル性」を、現代小説だけではなく、文芸誌そのものが失いつつあるということが問題である、と思う。その意味で考えれば、新生「群像」がそのスキャンダル性を取り戻そうとねらっているかぎり、リニューアルは成功なのである。

 たとえば、最近、文学関係者の間で、自明の真理のごとくよく言われることだが、「小説はフイクションである」という命題がある。そう言った瞬間に何か大事なものが失われるのだが、この問題を深く追究する人はいない。ということはフイクションの本質が忘れられているということだ。「小説はフイクションである」と言うことによって失われるのは、生活や事実に密着したスキャンダル性である。この命題を主張する事によって、作家も批評家も、メタ・レベルの安全地帯に逃避し、小市民的な「芸術と生活の二元論」を満喫することができる。しかし、そこで読者は、そういう作家を見限り,文学から離れて行くのである

 たとえば、読者から「あの小説は事実ですか」と問われて、作家が平然と、「フイクションですよ。小説ですから。」と言った瞬間に、作家たちは、小説にとって、何か一番大事なものを切り捨てている。そして、読者は、その二元論の嘘に敏感に反応するのである。たしかに小説はフイクションだが、しかし単なるフイクションであってはいけないのである。なぜか。文学や小説におけるスキャンダル性の根拠は、事実であり、現場であり、実践の場所だからだ。それに対して、作家にとっては書くことが現実であり、現場であり、実践であると主張することは容易だが、しかしそこには多くの場合,自己欺瞞が隠されている。  

井口時男は、三島由紀夫の『宴のあと』のプライバシー裁判や、最近では柳美里の『石に泳ぐ魚』裁判などで、文学者たちが文学防衛の為に使うこのフイクションの論理の欺瞞性を抉り出し、批判している。

  ≪「事実」の側からの異議申し立てを斥けようとして、文学は、小説は作家の想像力の所産であって、現実世界とは次元の異なる自立した言語空間、すなわち「虚構」なのだ。「事実」の水準と「虚構」の水準とを区別せよ、と主張する。実際三島もそのように主張した。しかし文学が自己弁護のためにもちいるこの論理は、結果的には自分の首を絞める。川嶋(山崎註―文芸評論家・川嶋至)のいうように、「小説は虚構であるという主張は,逆に虚構になぜ事実を、その特定の事実を必要としたかという反問によって,追いつめられることになる」からである。現にその小説が「事実」に依存していることは、作家の想像力が自力で飛翔もできず、小説が自立した言語空間たりえてもいないことの証拠となってしまうのだ。このとき、「事実」は想像力にとって、自分の弱点を証し立ててしまう「急所=恥部」になってしまう。≫

 鋭い指摘というほかはない。小説は作家の想像力の所産であり、当然それはフイクション(虚構)であると言いながら、その裏で作家は事実や現実的事件に深く依存している。つまり、これは事実だよ…、事実として読んで欲しいと願っている。読者もまた、それは事実であろう…と期待しながら読んでいる.。作者と読者の間には、お互いに暗黙の了解が成立している。

 では、なぜ作家は、事実に依存しながら、小説は事実ではなく「虚構=イクション」だというのか。それは、小説のリアリテッィの根拠が事実に深く依存せざるをえないという自己矛盾と、事実に対する責任を回避するためである。井口は、さらに、川嶋至についてこう言っている。

  ≪彼はたしかに文学の秘め匿したい「急所=恥部」をあばいたのだ。しかしその成功は、いわば,不幸な成功だった。端的にいえば、川嶋至はこの仕事の結果、文芸ジャーナリズムで書く場所をうしなった≫

 むろん、私は、川嶋が「文芸ジャーナリズムで書く場所をうしなった」かどうかを問うつもりはない。 むしろ、私がここで問題にしたいのは、川嶋至の仕事が、川嶋を文芸ジャーナリズムからの引退に追い込むほどの、それだけの兇器であったと言う事実の方だ。それに比較して、「文学批判」や「文壇批判」を繰り返しながら、いつまでも文芸ジャーナリズムで、楽しげに歌い踊り続けている昨今の文芸評論家たちは、まだその仕事が不徹底であり、中途半端であると断言せざるをえない。川嶋の仕事が、「根底的な批評」であった証拠は、それが文壇的反発を招き、文芸ジャーナリズムから隠遁を余儀なくされたという事実そのものにある。つまり文学批判や文壇批判を繰り返しながら、文芸ジャーナリズムでわが世の春を謳歌しいる者たちは、それはまだ彼等の批評が、文学や小説の「急所=恥部」に触れていないということなのだ。




■その他、大道珠樹から石原慎太郎,三浦祐之まで…

 芥川賞を受賞した大道珠貴のインタビュー(「文学界」3月号)が面白い。大道珠貴は、さかんに私生活の細部を暴露しようとしているが、私はこれは、大道珠貴が作家として生きていくために何が必要かを理解しているからだと思う。これに対して、前回、前々回の受賞者たちの作品には、小説としての作家としての戦略が欠けている。言いかえれば、作家として生きていこうとする意欲が欠けている。つまり作家という存在性を前面に出すことに対する羞恥と躊躇がある。それは当然、作品にも影響している。離婚や別居を軽いタッチでユーモラスに描く長嶋有の『ジャージの二人』(「すばる」3月号)も、電車の中での、何の変哲もない平凡な日常を描く吉田修一の『パパが電車をおりるころ』(「文学界」月号)も、よくまとまってはいるが、結局、前作や前々作の二番煎じ、三番煎じ、つまり同工異曲の作品の枠を越えていない。ここには、作品と作家の境界を、つまり「事実と虚構の二元論」を踏み越える…ことこそ小説である、という作家的意欲が欠如している。作家は作品で勝負する…と言いたいかもしれないが、その発言は実は、作品そのものが文学的兆発力を持たない…という作家的弱さと表裏一体なのである。

 評論では、石原慎太郎の「絵」に焦点をてて、作家としてデビューする以前に、絵描きを目指したことがあるという「作家以前の石原慎太郎」を論じた『石原慎太郎のエスキース』(「すばる」1月号)が、抜群に面白い。偏屈な美術教師との出会い、休学。父親との突然の死別…。今まで、あまり語られることのなかった石原慎太郎の「急所=恥部」に触れた秀作である。石原慎太郎論では、これは文芸誌ではないが、佐野真一が徹底的な現地取材をもとに描いた『石原慎太郎のすべて』(「現代」連載中)も見逃せない。二つの石原慎太郎論は、いずれも「作家とは何か」「小説とは何か」を考える上でも貴重な評論である。

 三浦祐之の『古事記講義』連載(「文学界」1−3月号)と鎌田東ニの『呪殺・魔境論』連載(「すばる」12−3月号)も貴重だ。中でも、三浦祐之は、先ごろ『古事記』の全訳を完成し、出版したばかりだが話にそれだけの学問的実績に見合うだけの重みと説得力がある。話の中味は、すでにどこかで聞いた話とたいして変わらないように見えるが、何よりも『古事記』という本の研究に長年うちこんできたという実績に裏打ちされた思想的な蓄積と深さが感じられる。

最近、学者先生たちの気軽なエッセイやコラムや対談などが文芸誌にも氾濫しているが、せめてこれぐらいの学問的成果をあげてからモノを言って欲しいと思う。近頃の学生はドストエフスキーを知らない(読んでいない)とか、同時多発テロやイラク攻撃はどうだこうだ…、ブッシュは阿呆だ…というような議論は、どんなシロウト(学生?)にでもできる低俗な、ありふれた議論にすぎない。政治談義『9・11から21世紀は始まった』(「新潮」月号)で、山城むつみが、終始、沈黙がちなのが面白い。それに対して西谷修と丹生谷貴志の「元気さ」がおかしい。明らかに浮いている。





●BACK TO TOP PAGE●




                   


■■■■■■■■■■■■■■■■
■  季刊・文芸時評 2003・冬  ■      
■■■■■■■■■■■■■■■■

≪文壇ということに戻ると、差別して言うわけじゃなくて、エンターテイメントに文壇はない。はっきり言うと、純文学の文壇つまり狭義の文壇は、作家と評論家と文学の分かる編集者ぐるみのものなんですが、エンターテインメントにはそれがない。≫(河野多恵子「文壇とは何か」)


●文学の生まれてくる場所

 ニーチェの形而上学批判の哲学について語る人は多いが、彼の批判の核心が何処にあったかについて語る人は意外に少ない。私の考えでは、「誰が語るのか…」、というところにニーチェの形而上学批判の論拠はあった。それが彼のキリスト教批判にはじまる形而上学・物語批判の論拠でもあった。たとえば、キリスト教的言説は「誰が語るのか…」と言えば、それは僧侶・牧師・司祭が語るのである。しかし、キリスト教的言説の語り手としての司祭や牧師は、言説の背後に姿を隠す。言いかえれば、あらゆる哲学や思想や文学の言説は、「誰が語っているのか」という言説の支配構造を隠す。それゆえに、「誰が語っているか…」を問うことによって、その形而上学的な迷妄を打ち破ることが出来る、と言うことだ。それは、テクスト理論における文学的言説の問題とも無縁ではない。 <br><br> たとえば、小林秀雄は、ニーチェ主義者として文壇に登場するやいなや、さつそく当時の文壇を席巻しつつあった商品論や価値論を語るマルクス主義者たちに向かって、君たちの言説自体も商品であり、その商品の詐術から自由ではないと批判した。つまり、語っている「汝自身を知れ」…と。彼らは、自分自身の特権的存在だけは隠して語っていたからだ。どんなに立派なことを言っていても、君たちが家庭の中で何をやっているか、は分かっているぞ…というわけだ。小林秀雄は、それを「舞台よりも楽屋が面白い」と言った。これは、言いかえれば、小林秀雄が近代批評として提示したものは、「私」や「作者」を問うことによる物語・形而上学の解体であった、ということである。小林秀雄が、いまでも読まれ続けなければならない理由は、ここにある。 <br><br> テクスト論は、作者の特権的位置を剥奪し,作者を消去し隠す。作品の解釈や読解は、作品外の事実や現実に依拠してはならないというわけだ。これは、半分は正しいが,半分は間違っている。そもそも作品を解釈することが批評の唯一の仕事ではない。作家や作者を論じることは、作品の解釈のためにするのではない。つまり作家論・作者論は作品解釈の一手段ではない。作品の解釈や読解に作者の創作意図や作家の私生活情報を援用するな…というのは正しい。しかし作家論や作者論が、作品の解釈や読解の道具としてあると考えるのは誤解である。それ自体が1個のの独立した批評ジャンルなのである。テクスト論は作品の読解や解釈だけが批評であると錯覚しているにすぎない。つまり、テクスト論には、「人は、どのようにして作家になるのか」「人は、どのようにして批評家になるのか」という作家論的問題、言いかえれば「誰が語るの」というニーチェ的問題が欠如している。

前回も触れたが、「小林秀雄全集」の完結に続いて、今度は普及判の「小林秀雄全集」の刊行が始まった。批評家の個人全集が、これほど頻繁に刊行されるのはめずらしい。なぜ、「小林秀雄全集」なのか。むろん、これほど頻繁に刊行されるのは、読者がいるからだろうが、とすれば、なぜ、「小林秀雄全集」は、読まれるのか。そこに何があるのか。もう一度、考えてみなくてはならない問題だと言っていい。それは、小林秀雄が、その批評によって、「文学の生まれてくる場所」としての創造の現場を提示したからだ、と私は思う。翻って考えるに、ポスト・モダン派・テクスト論者たちは、解釈中心主義に陥って、創造の現場を切り捨て、排除したのである。作品読解におけるテクスト論の革命的意義は認めるが、それが批評のすべてではない。

 たしかに、ここ30年ぐらいの間、文壇を支配していたのは,柄谷行人や蓮実重彦という固有名詞とつながるポスト・モダンとかテクスト論とか言われた現代思想であり、批評理論であった。しかし、今、その流行にも翳りが見えつつあるようだ。  

たとえば、加藤典洋の「テクストから遠く離れて」(「群像」10月号)や入江隆則の「福田和也論」(「新潮」12月号)、あるいは「群像」新人賞を受賞したばかりの新鋭批評家・伊藤氏貴の私小説論「<私>の行方」(「群像」12月号)や「三田文学」新人賞からデビューして,最近は文芸誌でも活躍する、まだ二十代の新鋭批評家・田中和生の「孤独な異界の『私』」(「文学界」12月号)など、これらの批評を読むと、それが実感できる。特に、テクスト論的な批評理論や小説理論の限界と終焉を理論的に宣言する加藤の評論は、一つの時代を画する重要な評論になりそうである。  

加藤は、大江健三郎のモデル小説『取り替え子』の解釈・読解をめぐってテクスト論者たちが理論的に破綻していることを論証している。つまり,テクスト理論の本質は「作者の死」(ロラン・バルト)という概念が示すように、作品解釈や読解作業を、「作者」という問題から切断し、純粋に作品内部の問題に、言いかえれば言語・文章の問題に還元することであった.。したがっって、その批評は無味乾燥な言葉遊びに終始してきた。作家の研究や作家の私生活を問う批評や研究は邪道であり、理論的に不可能と言うことになっていた。作品の解釈は作品の外部へ、つまり作者の私生活や時代背景などへ向かってはいけない、と。しかるに、大江健三郎の『取り替え子』は、明らかにモデル小説であり、言いかえれば私小説的小説であることを否定できない。つまり、この小説を解釈・読解する上では、多かれ少なかれ、「伊丹十三(吾良)」という「大江健三郎(古義人)」の「義兄」の飛び降り自殺という,大江の身辺に起こった具体的事件を参照しないわけにはいかない。もし、テクスト論者がその理論を貫徹したければ、この現実に起こった事件そのものを無視・排除すればいいわけだが,、はたしてそれが可能なのか。たとえ、それが可能であったとしても、そういう批評は批評の名に値することができるのか。

 ところが、現実にはテクスト論者たちは、作品外の「伊丹十三自殺事件」に、仕方なくとはいえ、ふれざるをえない。それは、作者について語ることであり,作品外の事実にいて語ることである.。言うまでもなく、ここではテクスト論の生命線とも言うべき「作者の死」の理論が放棄されている。

 そこで加藤は、ロシア文学者の沼野充義、フランス文学者で作家の松浦寿樹、文芸評論家の渡部直己や山城むつみなどのテクスト論的読解の論理矛盾を摘発し、もはやテクスト論的読解理論に依拠し、あくまでもその理論的原則に固執しなければならないというテクスト論的倫理だけでは、「作品と作者の関係」に固執する、いわゆる「テクスト論破り」を志向する最近の小説を追うことはできない…と宣言する。

 ≪その読むことの現場性、書くことの現場性から、その経験に照らして、テクスト論は、それまでの批評の考え方はおかしい、と反旗を翻した。そのテクスト論の考え方がおかしいとしたら、もう一度、その同じ場所から、テクスト論はおかしい、と言う必要があるのである。≫

 加藤は、あくまでもテクスト論の理論にそってテクスト論的読解の矛盾と限界を摘発して行こうとしているが、私は、それは理論の問題であると同時に、実践的な問題だと思っている。それは、たとえば、なぜ、彼らが、無名作家の無名小説を無視・罵倒し、大江健三郎の小説にこだわるかを考えればいい。彼らは、そのテクスト論的批評の貧しさを知っているが故に、ノーベル賞作家としての大江健三郎だけではなく、夏目漱石や中上健次というような「有名作家」に固執せざるをえないのだ。そこには作家存在への依存や素材への依存があることは言うまでもない。もしテクスト論を極限まで実践したければ、無名作家の無名のテクストの読解にまで突き進むはずである.。いや、すでに評価の定着した大作家だけを論じるのではなく、新しい作家を発掘するはずである。彼らが論の対象にするのが、主として中上健次や夏目漱石のようなすでに作家の個人生活が公然と知られている「有名作家」であるというところに、彼らの理論的限界と実践的な破綻がある。彼らは、作家という存在を、知らず知らずのうちに作品解読に適当に盗用しているのである.。私は、テクスト理論を、中途半端なところで妥協せずに、もっと徹底化してほしいと望む。そうすれば、彼らが無視し黙殺してきた小林秀雄という問題とぶつかるはずである。

 かつて、柄谷行人は、中上健次追悼文で、こんなことを言っている。  

≪私は、今「中上健次の文学」について語ることなどできない。私は「批評家」ではない。私は、中上健次をテクストとして読みたくない。それは個人的な関係を離れて見ることができないということではない。たえず前方の闇に向けて跳躍をくりかえす中上、病者の光学をもった中上、あの中上とともに私はいたいのだ。≫  

作品より作家が大事…。ここで、柄谷行人が言っていることに私は賛成だ。しかし、厳密に言うと、中上健次だけでなく、あらゆる作家に対してそうすべきなのではないか。つまりある特定の作家の文学作品を読むとは、その作家という存在を離れて、単なる完成品としてのテクストとして読むことではない。言うまでもなく柄谷行人は、本質的にテクスト論者ではない。だからテクスト論者は、その無味乾燥なテクスト論的批評の空虚さを補強するために、柄谷行人という存在に依存してきたのである。日本のテクスト論者たちは、その理論とは裏腹に、予想外に「人間主義的」で「文壇的」、「共同体的」なのである。たとえば、中上紀のエッセイ「異界の声がする夏」(「新潮」月号)にこういう文章がある。

 ≪その熊野大学の夏のセミナーに、今年もまた、柄谷行人氏、浅田彰氏、渡部直己氏、高沢秀次、山本ひろ子氏などの中上健次と親交の深かった講師陣と約百名の聴講生が集まり、(中略)墓参りにはじまり,各方面からのゲストによるコンサートなどのイベント、セミナーの聴講、そして講師チームと熊野大学チームによる゛中上健次追悼゛と銘うたれた野球大会という、毎年の流れに身を任せることで、父が亡くなったあの十年前の夏が、優しいヴェールのように何かで覆われていく。≫

 むろん、私は、中上健次という作家をめぐる、こういう作家や批評家たちの人間交流やイベントを、つまり擬似文壇的制度の存在を批判しているのではない。むしろ、こういう「文学の生まれる場所」や「人間関係」を大事にすべきだと思う。ただ、彼らが、日ごろ声高に主張していた「文学の終焉」や「文壇の解体」「作家の死」という文学的発言と、実際の彼らの行動の間に矛盾があることを指摘したいだけだ。

 そこで、この問題とも関連するので、次に河野多恵子と山田詠美の対談「文壇について」(「文学界」11月号)を見てみたい。二人の女流作家が、加藤のテクスト論批判と表裏一体の重要な議論を展開しているからだ.


●文壇無用論への反論

河野多恵子は、最近、「文学界」に連載していた「現代文学 創作心得」を、『小説の秘密めぐる十二章』と改題して刊行したり、また「三田文学」の「私の文学」でも新鋭批評家・田中和生を相手に熱弁をふるうなど、このところ文壇情勢や創作作法などに関する積極的発言が増えているように見えるが、いったいこれは何を意味しているのだろうか。むろん、河野多恵子には『半所有者』で「川端康成賞」を受賞するなどの作家本来の仕事もあるわけだが、私は、河野多恵子の一連の文壇的発言や小説作法論をいずれも面白く読んだし、これは誰れかがやらなければならないきわめて重要な文学的仕事の一つだったと思う。とりわけ山田詠美との対談は、かなり画期的な対談だと言っていいだろう。というのも、すでに前にも書いたことだが、「ポスト・モダン」華やかりし頃は、つまり,数年前までは、「文壇」と言う言葉自体が、古い「日本的システム」の象徴的言葉として罵倒対象であり、その言葉を使うことすらはばかられるような文壇的、思想的状況であったからだ。ましてや、文壇という日本的システムを擁護するなどということは作家や批評家にとって自殺行為にも等しいような、とても想像もできない反動的暴挙の一つと見られていた。むろん、それが、「作品」を作品外の問題に還元することを拒否しなければならない…というテクスト論的迷妄の影響によるものであったことは言うまでもない。

 その意味で、野坂昭如の小説『文壇』に続いて、堂々と「文壇」と言う言葉をタイトルにまで掲げ、さらに積極的に「文壇擁護論」を繰り返すこの河野多恵子・山田詠美の対談は、最近の文壇をとりまく思想的情勢の変化を典型的に象徴していると言っていい。河野多恵子は、そこで、同人雑誌体験や先輩作家たちとの交流、あるいは文学賞の効用まで、さらには、野上弥生子宅を突然訪問した話や、新築したばかりの三島由紀夫の家をこっそり覗きに行った話まで、作家誕生という文学の問題として語っているが、正解である、と私は思う。人は、どのようにして作家になるのか…という本質的な問題が、ここでは語られている。河野多恵子は私生活や身辺雑記的な素材を中心とする、いわゆる私小説系の作家ではないが、それ故に、こういう話には説得力がある.。

たとえば、中上健次に対する批評。

≪中上さんはある時期に、何か手がかりを必要とする評論家や編集者に利用されすぎた面があると思う。色んなことを論じるのに便利だということでね。そこのところが読めなくて、自分を拡大して感じていたところもある。人が良すぎた。そのことを惜しいと思う。≫ なかなか鋭い指摘である。誰もが,わかっていても、決して公言しなかったことである。 


●同人雑誌について ≪だから小説は、山のなかでたったひとりでやっていたらだめ。状況として山のなかでも構わないけれども、まったくひとりで、というのはだめ。(中略)地縁とか人間関係のあるところでないと、文化というものは栄えない。わたしはさいわい丹羽先生の「文学者」にいたけれども、ああいう同人雑誌のグループのなかでさえやはり人間関係とかいろいろなことで、もうとにかく下らないこともありましたよ。(中略)やはり行き暮れたときはひとりじゃだめ。だから、わたしは同人雑誌というのは大事なことだと思います。(中略)人間関係がなければだめ。ことに文学はそうです。≫(「三田文学」2002年秋号)

 こういう発言は、別に新しいことでも、風変わりなことでもない。きわめて常識的な発言である。しかし、最近、この常識が忘れられていたのが実情ではなかろうか。河野多恵子が、あえて発言しなければならない理由がそこにある。

 ところで、この河野多恵子発言は,何を意味するのか。

 それは、一言で言えば、ポスト・モダン的なテクスト論の終焉と、伝統的な文学やそれを支える文壇の復活…と言いかえられると思われる。むろん、それは、文壇内の守旧派が復活し、古きよき文壇を擁護し回顧しているという意味ではない。言い換えれば、それは、つい最近まで、文芸誌までを巻きこんで吹き荒れていた「文学批判」や「文壇批判」の言説そのものが、実はむしろそれらこそが悪しき「文学ロマンチシズム」や「文壇ロマンチシズム」の温床にすぎなかったことが明らかになり、その理論の破綻が露呈してきたことを意味している。 。

 河野は,小説論で、小説のタイトルのつけ方にまで言及しているが、私は、それは河野多恵子の文壇擁護論と連動している、と考える.。今、この種の「小説の書き方・入門」的な書物が流行しているが、河野が参入したことによって、この種の本が、いままでのように、いかがわしいハウツーブックの一種としてではなく、まったく別の意味を持ち始めたと考える。つまり、純文学とは、つねに、「小説とは何か」「小説家とは何か」を問うことであり、その作業そのものが純文学に不可欠な行為だとすれば、作家や批評家たちが、この種の本を書くことは、おのずからきわめて純文学的な文学行為としての意味を持つはずだからだ.。高橋源一郎や佐藤洋二郎も似たような書物を出版しているが、そけぞれの作家たちが、みずからの創作作法を公開して行く、こういう傾向はきわめて文学的だと,私は考える。

 伊藤氏貴のの「私小説」もそういう意味できわめてタイムリーな評論で、興味を持って読んだが、残念ながら常識的な私小説論の枠にとどまっているという印象を捨てきれない。私小説の再発見・再評価という視点にとぼしい。そもそも、専門外のことならともかくとして、文藝評論というジャンルの文章で、広辞苑の解説を引用して、それを軸に議論すると言う発想が,私には理解できない。


●テクスト理論に欠けていたもの

 さて,現代文学をとりまく思想的環境の変動を象徴的にあらわす評論も登場してきた。加藤典洋の「テクストから遠く離れて」(「群像」10月号)だ。そこで,加藤は、ほぼ30年近く文壇内外で吹き荒れ続けてきたテクスト論的な小説の読み方に対して、大江健三郎の小説「取り替え子」の解読をめぐるテクスト論者たちの混乱を指摘しつつ、すでにそれが無効になったのではないか、と宣言する。文壇の旗手に世代交代を迫る戦略的、かつポレミカルな評論である。これは、言い換えれば、そのタイトルが示すように、加藤より一世代前の批評家たち、つまり蓮実重彦や柄谷行人ら対する徹底的な批判と挑戦の試みだと言っていい。おそらく、竹田青咡の柄谷行人論「」(「群像」月号)に続く世代交代宣言の評論と言っていい。はたして、それが成功するかどうかはともかくとして、きわめて「文学的」「批評的」な試みであることに間違いはない。ここ30年ぐらい小説や批評が不毛だったのは、若手批評家たちの多くが、柄谷行人や蓮実重彦という新しい文壇的権威におもねるだけの、単なる「状況追従主義」に満足し、批評家として自立する意思を放棄してきたからだ。

 加藤のテクスト論批判は、結局のところ、私小説をどう解釈するか、という問題に集約されるように見える。つまり、加藤は、大江健三郎の私小説的小説『取り替え子』の解釈・読解におけるテクスト論者たちの理論的破綻の根拠を、「作者」の問題に還元している。大江健三郎の小説は、誰もが知っていることだが、現実に起こった大江健三郎の義弟(伊丹十三)の「飛び降り自殺事件」を素材にしている。しかし、「作者の死」をキイワードとし、作者と作品の関係を論ずることを禁欲するテクスト理論では、大江健三郎の私生活を問題にすること自体が論理矛盾に陥る。そこで、テクスト論者たちは、奇妙な逃げ道をつくることになる。加藤は、そこを攻撃し、テクスト論は破綻した…と追及していく。  

私は、加藤のようにテクスト理論が破綻したとは思わないが、加藤の批判は高く評価する。今度は、テクスト論を降りまわして,我が世の春を謳歌してきた側からの反論が読みたい。それこそが文壇の活性化につながるのではないか。  

その意味では、「私小説とは何か」という問題に真正面から取り組んだ新鋭批評家・伊藤氏貴の「」(「群像」12月号)も、内容的には不満が残るが、なかなかタイムリーな評論だと言っていいだろう。  

さて、批評ばかり取り上げて気が引けるが、もう一つ忘れてはならない評論がある。入江隆則の「福田和也論」だ。この評論も、「テクスト論の終焉」を象徴するものと言っていいだろう。


●入江隆則の「福田和也論」について

 さて、今回、私がもっとも注目した作品は、入江隆則の「福田和也論」(「新潮」12月号)であった。最近、文壇内外で圧倒的な存在感を示し、文壇や文学にも少なからぬ影響を与えていると思われる若手批評家・福田和也を論じものだが,昨今稀に見る出色の批評家論になっている、と私は思った。

 批評家と言えば、吉本隆明、江藤淳、秋山駿、柄谷行人、蓮実重彦というように、誰でも知っている名前が、つい最近までは浮かんでいたものだか,それ以後の批評家たちの名前は浮かんでこない。柄谷,蓮実以後の批評家たちは、批評家としの存在感が乏しく、はるかにカゲが薄くなっている。その中で、一人気を吐いている批評家が福田和也であることは、福田和也の批評に誰もが認めるところだろう。

さて、入江は、福田和也の「江藤淳批判」の評論「江藤淳氏と文学の悪」を軸にして福田和也論を展開している。あたかも福田和也の江藤淳批判によって江藤淳が決定的なダメージを受けて、結果的に江藤淳は自殺にまで追い込まれたかのように、論を進めているが、やや拡大解釈の嫌いもないではないが、それなりに説得力をもっているといわなければならない。福田和也の批評の新しさは、「自殺の哲学」ではなく、「他殺の哲学」にあるという解釈も鋭い。 

 しかし、福田和也や入江隆則は、保田與重郎を評価しているようだが,私は疑問に思う。入江隆則のデビュー作は、たしか小林秀雄論だったはずである。小林秀雄と保田與重郎は同じではなかろう。福田和也が、江藤淳や小林秀雄より保田與重郎を評価するのはわかる。


●新人賞について 

 各文芸誌が、新人賞を発表しているが、ここでも異変がおこりつつあるように見える。「難渋」「意味不明」の作品が後退し、前回の芥川賞受賞作家・長嶋有の一連の作品が象徴しているような、「平易な文体」と、「身辺雑記的」な素材を暑かった,一種の「風俗小説」が増えている。そこにあるのは、離婚や家出、家庭崩壊である。しかし、かつての家庭崩壊劇と違うところは,家庭崩壊や欠損家族を自明のこととして受け入れてしまっていることだろう。言いかえれば、両親が揃った円満家族というイメージ自体が、実は家庭内離婚やセックスレス夫婦に過ぎないことが、明らかだからだ。

 これが、いわゆるハブル経済の破綻からデフレ・スパイラルの罠に落ち込んだ最近の世相を反映していることは明らかだが,はたしてそれが文学的に評価すべきものかどうかは、一考を要することだろう。ここには、想像力と創造力の後退があるだけではないか、という疑問も浮かんでくる。

さて、受賞者と作品は、次の通りだ。


●「だらしなさ」の存在論――大道珠貴の世界

 最近、家庭崩壊小説とでも言うべき作品が増えている。しかしと、一連の家庭崩壊小説のなかでは、大道珠貴の「」(「群像」12月号)と「しょっぱいドライブ」(「文学界」12月号)が群を抜いて面白い。ここには、家庭や日常生活から「降りた」人間が描かれている。単に崩壊した家庭の中で、不幸に負けずに、「けなげに…」「元気よく…」生きているのではなく、そういう生活の根底そのものが壊滅し、底無しの暗闇の中へ脱落した人間が執拗に描かれている。その徹底的に、「だしない」「いい加減な」「無節操な」生き方は、生活というものを捨象し、ホームレス生活に馴染んでしまった人間や、車谷長吉が描こうとした「世捨人」につながる「不気味なもの」を持っている。いや、さらに「捨てる」ことの徹底化がここにはある、と言うべきだろう。

 坂口安吾の『堕落論』の「生きよ、堕ちよ…」は、誰でもが引用するために今では手垢にまみれた凡庸な言葉に成り下がってるが、しかし「人間は堕ちきることはできない」という言葉があることはあまり知られていない。つまり、「生きよ、堕ちよ…」と言うのはかんたんだが、そう簡単に「堕ちる」ことはできない、と坂口安吾は言っているのだ。

 大道珠貴の二編の小説の主人公たちの底無しの「だらしなさ」は、特筆に価する。

 佐々木涼子は,全共闘世代のフランス文学者らしいが、この世代の書き手としては、異色というほかはない。私は、作家としての佐々木涼子の経歴を知らないが、どういう文学遍歴の末にこういう小説を書くようになったのか、少し興味がある。 むろん、ここには若書きとは違う成熟した文体がある.。しかし、それが、成熟なのか衰弱なのか、判定しがたい。須賀敦子のような作家もいることだから、この小説は、フランス文学者のフランス滞在記である。


●「江古田文学」と「江古田文学新人賞」について  日本の現代文学にとって文芸誌の役割は非常に大きい。文芸誌と言えば出版社系の文芸誌が中心であることは言うまでもないが、「早稲田文学」や「三田文学」のような大学系の文芸誌の存在も忘れてはならない。出版社系の文芸誌が、経営や流行に敏感であることは、仕方がないが、それによって見落とされ、排除されて行くものも少なくない。そこで、経営や流行から一歩離れて、文学や小説の原点に立ちかえることが可能なメディアが大学系の文芸誌であろう。

 ところで、文学にとってもう一つの重要な柱だった同人雑誌の影が薄れ、また新聞の「文芸時評」欄が縮小され、かつての存在意義を失いつつある今、文芸誌への注目が集まるわけだが、しかし文芸誌もまた、かつてのような情報発信のパワーを喪失し、もっぱら人気や権威があると思われている作家や批評家の作品を掲載するだけで、いわゆる批判や反論を許さない閉鎖的なメディアに堕落しつあるように見える。とすれば、そこで注目されるのが経営優先・時局優先ではない「早稲田文学」や「三田文学」のような準文芸誌とも言うべき大学系の雑誌メディアだろう。ところが、そこに、新しく参入しようとする文芸誌がある。すでに吉本ばななや林真理子、大鶴義丹など、多くの個性的な作家を輩出している「日大文芸学科」を主体とした「江古田文学」である。

 「江古田文学」はすでに51号を数える雑誌だが、今回新しく作家の佐藤洋二郎を編集長に迎え、さらに新人作家発掘のための「江古田文学新人賞」を創設するなどのリニューアルを施した上で、「早稲田文学」や「三田文学」に続く第三の大学系の文芸誌といして登場してきた意義は小さくない。編集長の佐藤洋二郎は、編集後記に、こう書いている。

≪文学の停滞や衰退の時代だと言われて久しいものがあります。そのうえ世の中は不景気で、出版界を取り巻く情況もきびしいものがあります。≫≪企業である出版社が遠くを見ることができない環境にあり,目先の売れ筋に目を向けなければ死活問題だということもあります。≫  

「江古田文学51号」には,第一回「江古田文学賞」受賞作と同時に、加藤康男、坂本忠雄、高橋一清、寺田博、渡辺勝夫ら、かつて文芸誌の編集長だった人たちのエッセイも掲載されている。それぞれ、「文学の生まれてくる場所」や「小説の完成して行くプロセス」について、編集者の立場から具体的な作家や作品を素材にして描いているが、最近の文芸誌ではなかなかお目にかかれないエッセイである。文学や小説にとって本当に必要なもの、本当に重要なものが何であるか、を採算や時流を度外視して扱えるのが、大学系の文芸誌ではなかろうか。  

母親が死んで1年も経たないうちに、年上の女を家につれこみ、再婚すると告げる父とその相手の女。年取っているにもかかわらず、元気溌剌としている女に、夫婦間系が破綻しかけている「私」蓮実重彦、逆に慰められる、という広谷鏡子の「春岸」(「すばる」10月号)。フランス留学から帰った大学教師が、スキャンダルに巻き込まれ、閑職に飛ばされる古屋健三の「虹の記憶」(「文学界」10月号)。





[PR]
ブログランキング プロフ