丸山真男と小林秀雄(二) 山崎行太郎 ■体験の思想化について……小林秀雄の沈黙。 小林秀雄が、文壇にデビューする以前に父親の死や、中原中也の「女」との 恋愛や同棲、そして自殺未遂や家出など、疾風怒濤の青春時代を送っているこ とは、よく知られているが、そしてその青春時代の苛酷な体験や経験が、彼の 文学的営為や思想に少なからぬ影響を与えていることは、言うまでもないこと だが、小林秀雄自身はその体験や経験について、多くを語ろうとしなかっただ けでなく、むしろ徹底的に語ることを死ぬまで拒絶している。われわれが、小 林秀雄の波乱にとんだ青春時代の一端を知ることが出来るのは、小林秀雄の年 少の友人である作家の大岡昇平や、小林秀雄の妹で、漫画『のらくろ』の作者 として知られている田河水泡と結婚した高見沢順子の「回想録」を通してであ る。ところで、早い頃から、文芸雑誌の小林秀雄担当の編集者たちは、小林秀 雄の回想録を欲しがったが、小林秀雄自身は、それに対して決して首を縦に振 ることはなかった。つまり回想録の類の執筆を徹底的に拒絶し続けた。それは 、文学者としては、異常なほどである。むろん、小林秀雄も、デビュー早々の 頃は、まだ小説家として立つ意思を持っていたので、小説のようなものを、た とえば『一つの脳髄』や『Xへの手紙』等、幾つか残しているが、そこで、こ れらの波乱万丈な青春時代について、書こうとしなかったというわけではない 。いや、むしろ積極的に書こうとしたと言っていいが、しかし書くことが出来 なかった。小林秀雄は、その頃の事をこう書いている。 ≪三年前父が死んで間もなく、母が喀血した。私は、母の病気の心配、自分 の痛い神経衰弱、或る女との関係、家の物質上の不如意、等の事で困憊してゐ た。私はその当時の事を書きたいと思つた。然し書き出して見ると自分が物事 を判然と視てゐない事に驚いた。外界と区切りをつけた幕の中で憂鬱を振り回 してゐる自分の姿に腹を立てては失敗した。自分だけで呑み込んでゐる切れ切 れの夢の様な断片が出来上がると破り捨てた。≫(注一) 私は、小林秀雄の批評の成立にとって、もっとも重要な内的体験の一つは、 父親の死という体験であろうと思っているが、この『一つの脳髄』という作品 でも父親の死が重要な問題として描かれているわけだが、ついでに言うと、こ こで語られている失敗した作品とは、実は『蛸の自殺』という小林秀雄の実質 的な小説の処女作で、そこでも、小林秀雄は、父親の死や女との関係などを書 こうとしていたらしい。では、その『蛸の自殺』はどういう小説だったのだろ うか。その小説の一部を引用してみる。 ≪兎に角、父の死で一番参つたのは母である事は事実だつた。謙吉か妹の兎 もすれば墜入り勝の甘い感傷に比べれば、母の悲しみはもつと深いものであつ た。死といふ事実を目の前に見せつけられた事は同じであるが、其の感じ方は 自ら異つて居なければならなかつた。殊に病気になつてからは、死の影から逃 れよう、先の事は勉めて考へまい--と云ふ母の努力が痛ましく感ぜられて、よ く妹が無神経に母の前で父の話をするのをハラハラし乍ら聞いては母の前で成 可くさう云ふ話に触れまいと努める、謙吉も、時に依つて、「死に度い」など と捨鉢な気持を露骨に表はす母に対しては、母がひそかに期待して居る月並な 慰めの言葉も口に出す気になれず、唯、厭な気持でむつつりとして居るより外 仕方がなかつた。≫ ≪今夜は母の咳が多い、---彼は晩く床に就いたが寝附かれ無かつた---咳の 音、黴菌が群をなして蚊帳の中で渦巻いて居る様だつた。謙吉は息苦しさに、 何度も寝返りを打つた。若し俺が伝染したら---俺みたいな者に、落附いて養生 するなんて云ふ事は不可能だ。だから必度死ぬ---簡単に死ぬと定めて終つた空 想が、単なる空想でない事に想到してドキンとした。必度死ぬ---馬鹿、大体こ んなに無闇と興奮するのが善くないんだ、謙吉は蕎麦を食べた後で、自分の胃 袋を想像して見る様な鮮かさで、興奮で充血した肺尖の形を頭に画いた。而し て残忍な快感からその上に毛虫の様な黴菌を想像して這はせて見たりした。≫ ( 注二) これらの文章から分かることは、小林秀雄が、小説と言う形で、自分の体験 や経験を忠実に再現しようと試みていることである。おそらくここに書かれて いることは、事実そのものに近いだろうが、小林秀雄はこれ以上、書き続ける ことが、つまり小説家を目指しながら、小説を言語化し、完成することが出来 なかった。何故だろうか。それは、小林秀雄が、余りにも正確な、そして厳密 な表現というものを目指していたからだろうと思われる。小林秀雄は、ヴァレ リーの『テスト氏』を翻訳しているが、そこにも「正確という病を病んでいた ……」という重要なフレーズがあるが、小林秀雄もまた、小説家になるには、 余りにも研ぎ澄まされた、鋭敏な、そして時には病的とも言うべき自意識の持 ち主として「正確という病を病んでいた……」のであり、そうであるが故に、 その病が、適当な、要するに安易な「体験の言語化」、つまり「体験の思想化 」を許さなかったのである。小林秀雄は、小説という「体験の思想化」を断念 することによって、やがて、近代日本で最初の独創的な「批評家」になってい くのである。したがって、「自覚的な批評家」(江藤淳)となった小林秀雄は、 以後、体験や経験を安易に語ることを、つまり体験や経験の思想化ということ を、徹底的に拒絶し、そして断念することになる。これに対して、近代小説は 、まさしく体験や経験の安直な言語化であり、体験や経験の思想化に他ならな いが故に、小林秀雄は、それを拒絶し、そしてそれを厳しく批判することで、 批評というものを作り出していくのである。回想録を書くこともまた、小説を 断念した小林秀雄にとって、体験や経験の安易な言語化であり、それは彼の感 受性が許さなかったのである。回想録を書いて、過去を回顧するぐらいなら、 小説を書き、小説家になればいい。小林秀雄が若くして断念したものとは、小 説を書くことであり、体験や経験を安易に思想化、言語化することだったので ある。 つまり、小林秀雄の批評の文章が燦然と輝く時があるとすれば、それは、表 面的には語られていないが、多くの苛酷な体験や経験が沈黙の形でその文章に 封じ込められている時である、ということが出来よう。言い換えれば、言語化 され、思想化されていないだけに、その体験と経験は、作品の背後に封じ込ま れ、やがて文体を通して、激しい情熱とともに、われわれ読者の魂に迫ってく るのである。それこそがは、厳密な意味での「体験の思想化」、あるいは「経 験の思想化」ということであろう。小林秀雄は、大東亜戦争開戦の前後に、時 代論や情勢論から遠く離れるかのように、ドストエフスキー論に取り組んでい るが、『ドストエフスキーの生活』という長編評論の序文「歴史について」で 、こう書いている。 ≪従つて次の事はどんなに逆説めいて聞こえようと真実である。偉大な思想 ほど亡び易いい、と。亡びないものが、どうして蘇生する事が出来るか。亜流 思想は亡びないのではない。それは生れ出もしないのである。≫(注三) ■丸山真男の原爆体験の思想化について。 丸山真男もまた、小林秀雄と同様に、語るに値する貴重な体験の持ち主であ るることが、今では、わかっている。それは、丸山真男の原爆体験、ないしは 被爆体験と言われるものである。だが丸山真男は長い間、その原爆体験、ない しは被爆体験を誰にも語らず、隠し続けた。戦後思想も戦後文学も、言うまで もなく、戦争体験を安直に語ることから始まり、丸山真男はその思想潮流の頂 点にいた人であるが、少なくとも丸山真男だけは、その戦争体験を、つまり原 爆体験を、みずから、積極的に語ろうとはしなかったように見える。何故だろ か。大いに疑問を感じるところだが、そこには、やはり他人には言えないよう な何かが隠されているのだろうか。といよりも、そこに、凡庸な戦後思想家、 あるいは進歩思想家とは違うものが、つまり丸山真男をして丸山真男たらしめ たものの存在の秘密があると言うべきかも知れない。われわれが、丸山真男に 、他の凡庸な戦後思想家とは違う、「何か」を感じるのは、そういうところか もしれない。戦争体験を隠したまま、戦争体験を語らずに戦後思想を先導して きた戦後思想家……。はたしてそんなことは可能なのだろうか。しかし、それ を可能にしたのが丸山真男なのである。言い換えれば、小林秀雄にもつながる ような、「体験の思想化は可能か」という問題がここに横たわっている。そし て小林秀雄も丸山真男も、素朴な「体験の思想化」を拒絶することによって、 つまりメロドラマ(物語)としての素朴な体験を語らずに沈黙を守ることによっ て、最高度の「体験の思想化」を達成したのではないだろうか。丸山真男は、 原爆体験を語り始めた頃、この問題を問うた藤高道也宛ての書簡で、少し感情 的になりながら、こう言っている。 ≪小生は「体験」をストレートに出したり、ふりまわすような日本的風土( ナルシズム!)が大きらいです。原爆体験が重ければ重いほどそうです。もし 私の文章からその意識的抑制を感じとっていただけなければ、あなたにとって 縁なき衆生とおぼしめし下さい。なお、私だけでなく、被爆者はヒロシマを訪 れることさえ避けます。私は6年前、勇をこして広島大学の平和科学研究所に被 爆後はじめて訪れ、原爆と平和の話をしました。しかし被爆者ヅラをするのが いやで、今もって原爆手帖(ママ)の交付を申請していません。≫(注四) これは、珍しく丸山真男らしくない感情的な物の言い方であるが、それ故に 、かえって丸山真男の思想的本質を露にした言葉だと言っていいだろう。さて 、この言葉から、丸山真男が、原爆体験を意識的に、そして意図的に語らなか ったのだ、ということがよくわかるのだが、その上に、「被爆者ヅラをするの がいやで……」という過激な言葉まで使って、「原爆手帖」の交付も受けてい ないと強調しているわけだが、これは解釈の仕方によっては、被爆体験や原爆 体験を大げさに語り、ヒロシマこそ平和運動の聖地として祭り上げようとする 被爆体験者や原爆体験者、あるいはそういう戦後の平和思想を看板にすえてい る政治勢力への内部批判と言う言葉とも受け取れるはずである。私が、丸山真 男という思想家を、戦後思想や戦後民主主義というイデオロギー的レベルで理 解していては、丸山真男の存在本質を見失うだけでなく、丸山真男の思想さえ も見失うことになると思うのは、こういう点を考えているからである。丸山真 男は、安易に原爆体験を語ることを、「被爆者ヅラすること……」ととらえて いたのであり、「小生は『体験』をストレートに出したり、ふりまわすような 日本的風土(ナルシズム!)が大きらいです。」という丸山真男の厳しい言葉 の悪意は、原爆体験や原爆体験者にも、つまり凡庸な戦後思想にも戦後民主主 義という思想にも向かっていたはずである、と私は考える。丸山真男が、原爆 体験を素朴に語ることを拒絶し、沈黙した背景には、そういう丸山真男の思想 的資質があったはずである。 凡庸な政治学者や思想家は、≪原爆体験というものを、わたしが自分の思想 を練りあげる材料にしてきたかというと、していないです。……≫(「普遍的原 理の立場」―注五)という丸山真男の告白を受けて、≪丸山は原爆体験の思想化 を犠牲にしてでも、政治学者として戦争体験を思想化することにこだわり続け けだのとではないか。≫(平野敬和「丸山真男と原爆体験」―注六)とか、ある いは≪丸山真男の謙遜な発言をそのままうけとることは危険である。≫(石田雄 「戦争体験の思想化と平和論」―注七)とか言っているが、いずれも、どこかピ ントが外れているように見える。 それでは、何故、戦後二十数年も経ってから、≪小生は『体験』をストレー トに出したり、ふりまわすような日本的風土(ナルシシズム!)が大きらいで す≫と言う一方で、頻繁に原爆体験を語り始めることになったのだろうか。何 が、丸山真男に、沈黙し、抑圧していた原爆体験を語らせることになったのか 。疑問である。年齢だろうか、病気だろうか。私は、ここに、小林秀雄と丸山 真男の思想家としての資質の「差異」があるように思うが、先走りは止めよう 。 ■八月七日の丸山真男……。 そこでまず、丸山真男の原爆体験について具体的に見てみよう。丸山真男は 、敗戦間際の一九四五年三月、東京帝国大学法学部の助教授の職にありながら 、異例の再召集を受け、そして、広島市宇品の陸軍船舶司令部(通称暁部隊)に 配属された。そして八月六日の朝礼中に原爆に遭遇した。そして翌日、八月七 日のことであるが、これが、ちょっと微妙な問題を孕んでいるので、推測で語 るのではなく、あくまでも丸山真男自身の証言をまず引用してみよう。丸山真 男は、その翌日の事を次のように語っている。 ≪救護及び死体収容のため、兵隊は全部出動しろ、というあれが下ったわけ です。本来なら僕は、これに行くはずなんですけれども、情報班長が「お前は 留守で残っていろ」と。それで、一人留守になっちゃったのです。そのとき出 ていたら、もっと悲惨な光景を見ていたわけですけれども、まさに火が収まっ た直後、翌日の朝ですから。その日一日、兵隊が、生々しい死体を片付け、破 壊の後片付けをやったところは全く知ら ないのです。僕が出たときには、少な くとも通りはきれいに清掃されていました。(中略)あの兵隊の中からも相当放 射能に当たって発病した人がいるんじゃないでしょうか。直後ですから。≫(注 八) 丸山真男は被爆の翌日、他の兵隊が全員、後片付けに出かけたにもかかわら ず、情報班長の命令で外出せずに兵舎に残り、部屋に閉じこもっていいた。何 故か。何故、丸山真男だけが残ったのか。実は、この被爆者・丸山真男の「そ の翌日」の、つまり「八月七日の丸山真男」にこだわったのは、私の知る限り 、作家の佐川光晴が最初で最後である。佐川光晴の結論、ないしは予想は、漠 然とだが、私にはわかる。佐川光晴は、こう言っている。 ≪『卑怯だぞ!』という罵りが思わず口をつきかけるが、それはやはり謹ま ねばならないだろう。しかし、やはり、このインタビューで最も強い印象を残 すのは、部隊の全兵士が出動した兵舎でひとり留守番をする丸山の姿である。 上官がなぜ丸山ひとりに留守を命じたのかはわからない。ただ、かれがそれに 素直に従ったのも事実である。(中略)投下の翌日にひとり兵舎で留守番をして いたことまでは語らなかっただろう。それは思いかけず口走るか、小説として 書く以外に言いあらわ しようもない事柄だからだ。(中略)八月七日の丸山真男 に、私は限りない愛惜の念を抱いている。本人は どこまで意識していたかどう かわからないが、この一日がなければ、その後の丸山はなかったとさえ、思っ ている。いつか、この日の丸山に焦点を当てた作品を書いてみたい。≫(注九) 佐川光晴のこの読みは、まことに鋭い。佐川光晴のこの丸山真男論は、どの ような丸山真男論よりも丸山真男の思想的急所を突いているとと言っていいだ ろうと思う。この分析は、丸山真男を崇拝する政治学者や思想史家が、あるい は丸山真男を批判し否定する政治学者や思想史家が遠く及ばない丸山真男の思 想的本質の内部に踏み込んでいる。丸山真男にとっての原爆体験とは、「八月 六日」の体験ではなく、翌日の「八月七日」の体験である。そこで、何が起こ ったのだろうか。おそらく丸山真男の原爆体験にこだわる政治学者や思想史家 は少なくないだろうが、こういう問題の本質に迫る人は、一人もいないだろう 。少なくとも、これまでのところ、私は読んでいない。これは佐川光晴も言う 様に、小説的な問題、ないしは文学的な問題である。そこで、私もまた、佐川 光晴にしたがって、≪八月七日の丸山真男に、私は限りない愛惜の念を抱いて いる。本人はどこまで意識していたかどうかわからないが、この一日がなけれ ば、その後の丸山はなかったとさえ、思っている。≫と言っておこう。 ところで、丸山真男自身は、別の発言では、意識的か意識的かはわからない が、八月七日をたいして重視していないように見える。むしろ翌々日の、八月 八日の体験を強調している。たとえば、こんな具合に……。 ≪私は戦後、なにかの折に「ああ、おれは生きているんだなあ」とふっと思 うことがあります。というのは、なにか間一髪の偶然によって、戦後まで生き のびているという感じがするのです。…私の場合とくにその実感を支えており ますのは、なんといっても敗戦の直前の原爆であります。…そのときの状況を お話すればきりがありませんし、またその直後に私がこの目で見た光景をここ でお話する気にもなれません。ただ私は非常に多くの「もしも」−もしもこう であったら私の生命はなかった、したがって私の戦後はなかったであろうとい う感じ、いわば無数の「もしも」のあいだをぬって今日生きのびているという 感じを禁じ得ないのであります。(中略)翌々日、私は外出してみて、宇品町 でも死傷者が多いのにおどろきました。しかも私は放射能などということに無 知なものですから、その日一日爆心地近辺をさまよい歩いたりしました。その 他、その他の「もしも」を考えますと、私は今日まで生きているというのは、 まったく偶然の結果としか思えない。ですから虚妄という言葉をこのごろよく ききますが、実は私の自然的生命自身が、なにか虚妄のような気がしてならな いのです。けれども私は現に生きています。ああ俺は生きているんだなとフト 思うにつけて、紙一重の差で、生き残った私は、紙一重の差で死んでいった戦 友に対して、いったいなにをしたらいいのかということを考えないではいられ ません。≫(注十) これが、丸山真男が原爆体験について公的な場所で語った最初の文献らしい が、丸山真男はここで、「翌日」ではなく、「翌々日」の体験を詳しく話して いる。丸山真男は、翌日は、やはり、戦友のほとんどが被災地の後片付けに出 掛けていつた後の留守の部屋に一人、留守番として閉じこもっていたのだろう か。そして、≪翌々日、私は外出してみて、宇品町でも死傷者が多いのにおど ろきました。しかも私は放射能などということに無知なものですから、その日 一日爆心地近辺をさまよい歩いたりしました。≫という発言だけから見ると、 丸山真男は、翌日のことは、たいして気にも留めていないかのようにみえるが 、はたして、どうだったのだろうか。被爆の「翌日」、つまり「八月七日」の ことについては、敢えて避けて、何事もなかったかのように「とぼけて……」 いるのだろうか。むろん私は、丸山真男は、やはり「八月七日」にこだわって いるのだと思う。だから、≪紙一重の差で、生き残った私は、紙一重の差で死 んでいった戦友に対して、いったいなにをしたらいいのかということを考えな いではいられません。≫と言うのであろうと思う。 ここから、丸山真男と小林秀雄の思想的体質の「差異」が、かすかに見えて くる。小林秀雄が、その死まで沈黙を貫き通したのに対して、丸山真男は…… 。おそらく、敢えて、丸山真男が、「八月十五日」という特別な日に死んだこ とになっているように、丸山真男は、癌発病から死を迎える段階において、「 原爆体験を語ること……」を選択したのであろう。しかし、あらゆる体験や経 験の言語化がそうであるように、そこには記憶違いや嘘や虚偽が混入していな いはずはない。丸山真男の原爆体験にも、「八月七日」の体験が、隠蔽されて いる。「八月七日」に、丸山真男は、兵舎に残り、留守番をしていた。そのこ と対して、丸山真男が「引け目」、あるいは「自責」を感じなかったはずはな い。≪紙一重の差で、生き残った私は、紙一重の差で死んでいった戦友に対し て、いったいなにをしたらいいのかということを考えないではいられません。 ≫という自責の言葉が、丸山真男の思想を支えているのである。丸山真男が、 他の凡庸な政治学者とはレベルの違う存在論的な政治学者になりえたのは、そ こに根拠がある。だが、言うまでもなく小林秀雄の沈黙とは対照的である。 注一、1924/07 小林秀雄『一ツの脳髄』 『青銅時代』(第六號) 注二、1922/11 小林秀雄『蛸の自殺』 『跫音』(第三輯) 注三、1938/10 小林秀雄「歴史について」『ドストエフスキーの生活』 注四、1983年7月11日、丸山真男「藤高道也宛のはがき」『丸山眞男書簡集第3 巻』 注五、1967/5 丸山真男「普遍的原理の立場」『思想の科学』 注六、2006/4 平野敬和「丸山真男と原爆体験」『丸山真男 没後十年、民主 主義の神話を超えて』 注七、1998 石田雄「戦争体験の思想化と平和論」『丸山真男座談』月報 注八、1998/7 丸山真男「24年目に語る被爆体験」『丸山真男手帖』 注九、2006/8 佐川光晴「八月七日の丸山真男」『新潮』 注十、1965/8 丸山真男「20世紀最大のパラドックス」『丸山真男集九』 ■イデオロギーから存在論へ 最近の論壇やジャーナリズムに決定的に欠如していると思われるのは存在論的 思考とでもいうべき、深い、根源的な思索である。存在論的思考とは何か、と いうことになるが、その前にまず存在論的思索と対立するのはイデオロギー的 、あるいは倫理主義的思索であるといことを確認しておこう。最近の論壇やジ ャーナリズムに蔓延しているのは、このイデオロギー的、倫理主義的思考であ る。たとえば、ニ−チェに『善悪の彼岸』という論文があるが、道徳的な善か 悪かにこだわらない思索、つまり「善悪の彼岸」で思索することこそ存在論的 思考であり、反対に「善か悪か」というような二元論的な価値観や倫理を優先 する思索が、イデオロギー的、倫理主義的思考である と一先ず、言うことが 出来よう。同じくドストエフスキ−の『罪と罰』には、金貸しの老婆を斧で撲 り殺す「殺人犯ラスコ−リニコフ」を主人公が登場するが、今更言うまでもな く、、 いわゆる「小沢事件」におけるマスコミの激しい「政治とカネ」批判、つまり 「小沢バッシング報道」や、それに煽られた作家、批評家、知識人、文化人、 思想家…等の「小沢罵倒発言」を詳細を見ていくと、最近の文壇や論壇、ジャ ーナリズムの思想的レベルの低下は顕著であると言わるをえないように思う。 その思想的レベルの低下の根本原因が、イデオロギー的、倫理主義的思考の蔓 延にあることは明らかだ。前回、私は立花隆や福田和也の「小沢批判」の思想 的レベルの低さを取り上げ、批判したが、今月は、さらに多くの、思想的に語 る値しないような低レベルの「小沢批判」を、「新潮45」の「小沢一郎特集 号」を筆頭として各雑誌メディアで読むことが出来る。そこにあるのは、田中 角栄以来の「金権政治家」批判 ■江藤淳の「小沢一郎論」を読み直せ 江藤淳は、「諸君!」1993年1月号で、こんなことを言っている。当時の 政治情勢はと言うと、竹下グループと小沢グループの対立と分裂騒動が起き、 小沢グループが離党、新党結成を画策し、やがて宮沢内閣下での衆議院選挙の 結果、それまで万年与党であった自民党が下野することになり、それに対して 小沢主導の「連立政権(細川首相)」が成立するという政界激動期の直前であ ったが、江藤は、この時期の政界では、竹下と小沢の対立と権力闘争こそ重大 問題だとい前提に立ち、竹下、小沢の政治手法の違いを論じながら、独自の小 沢論を展開している。…。 《それに対して、派を割ってでも、あるいは自民党そのものを分裂させてでも 、冷戦後の国際情勢に対応しなくてはいけないと、小沢グループは考えている ように見受けられる。そこには非常にはっきりした政策目標がある。》《小沢 氏というのは不思議な政治家で、要するに政策を実現することが第一義、その ために自分がいつ総理になるかは二の次の課題であって、現在、輿望を吸収出 来る人物が羽田孜氏であれば羽田さんを担ぐ。》 ■沖縄論へからアイヌ論へ ■金権政治と土建や政治が、何故、批判されるのか? ■「イラン・イラク戦争」を描くイラン人女性作家の誕生。  日本留学後、そのまま日本で生活している中国生まれの在日中国人が、日本 語で書いた小説で「文学界」新人賞を受賞し、その上に、別の作品ではあるが 、芥川賞まで受賞して、ちょっと話題になったのは、つい最近のことだが、今 度は、イラン生まれのイラン人女性が、日本語で書いた小説が、またまた「文 学界」新人賞に選らばれている。こんなに立て続けに外国人女性が、母国語で はなく、外国語としての日本語で書いた小説が、新人賞に選ばれていることは 、ちょっとその選考基準や選考方法、あるいはその仕掛けを疑いたくなるが、 しかし、無論、選考基準や選考方法に何か仕掛けや秘密があるわけではないだ ろう。というわけで、「文学界」新人賞を受賞したシリン・ネザマフィの「白 い紙」を読んでみたが、やはり受賞するだけあって、素朴な文体に素朴なテー マの小説だが、よく出来た感動を誘う小説である。イラン・イラク戦争下の少 年、少女の出会いと別れを描いているが、日本人の書いた最近の小説にはない 、新鮮な魅力を秘めている。選考委員が、注目するはずで、受賞も当然という ことになろう。イラク軍の攻撃の前に、隣町が全滅したために避難を余儀なく された少年と少女の家族だったが、しかしたまたま少年の父親が、「名誉ある 兵士」として戦争に参加していたことから、その父親が全滅寸前の戦線から逃 亡したという知らせが密かにもたらされたちは、政治権力を持つべきではないし、さっさと政治権力の中枢からは去るべきだろう。山奥に引き込んで、静かに家庭菜園か盆栽でもやっていればいいのである。そういう「清く」「正しく」「美しい」…弱者は、政治家であってはならない。国民を泣かせるだけである。 2009-07-18 ■保守論壇の重鎮・渡部昇一の「昭和史」のデタラメを読み解く。 渡部昇一は、現在、保守論壇の重鎮という位置に祭り上げられているらしく、本人も満更でもないらしく、すっかりその気になって、いかにも「保守論壇の重鎮」風の言動を繰り返しているらしい。僕に言わせれば、まさにそこに、つまり渡部昇一ごときが、「保守論壇の重鎮」であるかの如く振舞えるところに、昨今の保守論壇や保守ジャーナリズムの劣化と知的退廃の病根があるのだが、誰もそれには気付いていないらしい。渡部昇一が、「沖縄集団自決裁判」に関連して、「騒げば金が手に入ることがわかったから騒いでいる」というような、読むのもはばかれるようなデタラメ発言を繰り返、「逃亡兵の子」となったことを自覚 した少年は、深く傷つく。その「ハサン」少年は、成績優秀でテヘランの大学 の医学部を受験し合格するが、戦争への志願を呼びかける青年たちの激しい演 説を聞いているうちに、医学部進学を勧める先生や母親を振り捨てて、兵士と なり、戦場へ向かう。そして、それを見送る母親と少女……。   ≪トラックの後ろ、一番前の列に、兵隊の濃い緑の制服を着たハサンが座 っていた。朝剃らなかったのか、アゴにうっすらとヒゲが生えていた。柔らか い茶色の髪に鉢巻を巻いて、細い指が、長い銃を握り締めていた。制服のせい だろうか、たくましく見える。母親がトラックの横で、チャドルで顔を隠して 泣いているのにも拘わらず、ハサンは無表情で、真っ直ぐ前を向いている。目 も表情もすべて乾いている気がする。手を振った。ハサンは無反応だ。居るこ とに気付いてくれているのか。「ハサン」と小さく呟いた。人ごみの雑音で、 声が消えた。「ハサン」もう少し大きく言った。前を見ているハサンの目が全 く動かない。「ハサン!」全力で叫んだ。周囲のざわめきが、一瞬だけ収まった 。ハサンが茶色い目を人ごみに回らした。目があった。≫   これは、戦争ならば何処にでも見られる平凡な出征兵士たちの風景だろう が、しかし作者は、ハサン少年の複雑で、微妙な表情をよく描いている。ハサ ン少年は、「父親が……逃げちゃった」という不名誉な現実が耐えられない。 「俺は昨日まで戦争に行っている英雄の息子だった……」。しかし、小さい町 だから、父親が逃亡したという噂はすぐ広がり、これから少年と母親には、「 恥をかく毎日が……」が待っているだろう。だから、ハッサン少年は、母親が 泣いても、先生や少女が引き止めても、行かなければならないのだ。   ≪どれぐらい経ったろう。誰かが、゛ヤーアッラー゛と叫んだ。いよいよ トラックの列が動き始める。゛我々が勝つ!゛その人が大きな声で言った。トラ ックに乗っている人たちが大声で繰り返した。続いて゛神のため、国のため!゛ と叫んだ。全員強く唱和する。そして、テレビで見る戦争の映像と共に、いつ も流れる歌、゛イエ イラン゛を全員歌い始めた。強く切ない歌詞に膝が緩む 。ハサンを乗せていたトラックが、大量の黒いガスを排出しながらゆっくり動 き出した。(中略)ハサンの母親が路上の反対側で、顔をチャドルで隠して、肩 が激しく揺れている。ハサンの表情が黒い排気ガスで曇った。≫   単純と言えば単純な、素朴と言えば素朴な小説であるが、しかし、ここに は、歴史や政治や国家や戦争を、声高に自信に満ちた語り口で語る者たちが、 決して見ようとしない現実、あるいは見ることの出来ない現実が描かれている ことを忘れてはならない。ハッサン少年の屈辱と哀しみと決断……。松浦理英 子が選評で、「戦争や政治的動乱を背景にした小説が、平和時の日常を背景に した小説よりも、常に重く切実な問題を孕み深い読後感を残すとは決まったも のではない。」と言うのは正しい。この「白い紙」は単純素朴な小説に見える が、決して単純素朴な小説ではない。自己の心理の奥底を「突き刺す視線」が 、ここには、ある。「自己を突き刺し、笑い、相対化する視線」(松浦理英子) である。  タイトルの「白い紙」の意味も単純である。「先生」がいつも言っていた言 葉、「君たちの人生が白い紙のようで、自分でそれに何を書くかで、人生が変 わる……」から取った題名である。この作者が、これから、日本とイランを股 にかけて、どんな屈辱と哀しみと決意を描いていくのか楽しみである。それら は文学にしか描けない。ところで、この母親や少女の、あるいは少年の屈辱や 哀しみを、単純に「私」の感情論として切り捨てて、「公」の論理を声高に主 張するようになったところに左翼論壇、保守論壇を含めて論壇やジャーナリズ ムの思想的劣化と知的退廃の原因があった、と私は思う。 ■「諸君!」は、何故、柄谷行人を使わなかったのか?  「論座」「月刊現代」、そして「諸君!」の休刊決定が発表されてから、保守 論壇だけではなく左翼論壇をも含めて、論壇やジャーナリズム全体が直面して いる「危機的状況」の実態が露になってきたが、その「諸君!」の最終号(6月 号)を読んでみたが、なるほど休刊・廃刊に追い込まれるはずだと思わないわけ にはいかなかった。「諸君!」は、1960年代末期に、左翼論壇に対抗すべく、小 林秀雄、福田恒存、江藤淳、三島由紀夫等、つまり文学者たちを主要な執筆者 として創刊された保守系オピニオン雑誌だが、時とともに雑誌の編集方針も変 遷したらしく、初期の編集方針が崩れ、いつのまにか、外部に「仮想敵」を作 り、それをひたすら攻撃・罵倒するという、刺激的、扇動的、あるいは排外主 義的な政治的雑文中心の編集方針へ流れていったらしい。その結果、読者の読 解能力も思考力も劣化していったものと思われる。たとえば、「テレビで顔を 売るのが勝ち……」と公言してはばからないような軽薄なテレビ文化人・宮崎 哲弥を司会者にして、最近の保守論客たちを集めた二つの座談会「麻生太郎よ 、保守の気概を見せてくれ」(5月号)、「日本人への遺言」(6月号)を読んで、 そのあまりの幼稚な政治漫談中心の座談会に失望、落胆すると同時に、これな ら、もっと早く廃刊を決断すべきだったのではないかと思わないわけにはいか なかった。そもそも、テレビ文化人・宮崎哲弥を司会役に起用するところに、 現在の「諸君!」を筆頭とする保守論壇メディアが堕ち込んでいる思想的劣化と 知的頽廃が垣間見えると言っていい。素人レベルの「政界情報」や、安っぽい 「政治談議」ばりでは、読者もこの程度でならば読む必要はないと判断し、す ぐに見捨てるのは当然だろう。この種の世俗的な政治漫談に、最後までついて くる読者は、おそらく程度の低い野次馬的な読者ばかりだろう。  「諸君!」の記事に比べれば、「中央公論」5月号の柄谷行人と西部邁の対談 「恐慌・国家・資本主義」の方がはるかにマシだろう。ここで柄谷行人と西部 邁は、最近、全世界を覆う経済危機について、マルクスの『資本論』を素材に して、その経済危機の本質を、原理論のレベルで分析している。たとえば、恐 慌という問題を、宇野弘蔵の「労働商品化の無理」や「国家は労働者を生産で きない」という論理から、資本主義における「恐慌の必然性」を説き起こした り、その解決策として、貨幣に依存しないゲマインシャフトとしての「共同体 論」や「アソシエーション」という方向性を提示したりしている。特に、柄谷 行人の発言は、膨大なマルクス研究の実績を踏まえているが故に、右翼や左翼 、あるいは保守や革新という思想的立場を超えて、興味をそそられる。柄谷行 人に比べれば、西部邁のマルクスその他に関する知識不足と思考力の欠如は明 らかで、西部邁が、「物事を深く、持続的に考えていない」ことがわかる。こ れでは、西部邁に象徴される最近の「保守思想家」の思想的レベルが、どの程 度のものかは察しがつくというものである。ところで、柄谷行人は、同じ文藝 春秋の月刊雑誌である「文学界」には頻繁に登場しているが、「諸君!」には登 場していない。何故、「諸君!」は、柄谷行人を登場させなかったのか。保守論 壇全体が、哲学や文学を、つまり本質的、原理的な議論を避けて、遊びたかっ たからだろう。 ■世襲議員が日本を滅ぼす。  さて、今月は、本誌で、「世襲論」を特集するということなので、私も、こ こで、一言、書き加えておこう。言うまでもなく、現代日本の政治が劣化し堕 落したのは世襲政治家たちの存在が大きい。そもそも世襲政治家とは何か。こ れは、論壇的言説の思想的劣化とも関係しているが、世襲政治家とは、カネや 地盤の苦労が少ないだけに、政治を、知識や技術のレベルで理解し、それ故に マスコミに流される流行思想に安易に飛びつき、付和雷同する政治家たちであ る。彼らは、本質的に選挙という「死ぬか生きるか」の現場・戦場を知らず、 つまり「溝板を踏んで歩く」という肉体的訓練を怠った結果、口先だけの政策 論争に溺れ、政策が政治だと勘違いする種族である。二世議員である安倍晋三 議員や中川昭一議員が、「歴史観」や「国家観」という言葉を安易に乱発して 、頭でっかちな「保守政治家」を気取っているが、これが危険なのである。す でに証明済みだが、彼等は政治家として、ここぞという本番で役に立たないど ころか、とんでもない不始末を仕出かすのが落ちである。本居宣長に「意は似 せ易く、姿は似せ難し」という言葉があるが、この言葉を小林秀雄も引用して いるが、それは誤解を恐れずに政治的に翻訳して言えば、「政策」(意)より「 人間」(姿)が大事だ、ということである。政策は、勉強すれば誰にでも身につ く代物であるが、しかし政治家としての人間力(姿)は、どんなに勉強しようと も、どんなに努力しようとも、そう易々と身につくものではない。つまり努力 すれば、誰もが、松井選手や松坂投手になれるわけではない。古い言葉で言え ば、人間には、生まれたときから自然に身についた「器」というものがある。 その政治家の「器」を判定するのが選挙である。さて、そもそも凡庸・愚鈍な 世襲政治家が大量発生するきっかけになったのは、やはり小選挙区制からだろ う。小選挙区制の場合、小泉ジュニアがそうであるように、実績も能力もない ままに、つまり選挙という「生きるか死ぬか」の洗礼を受ける前に、公認の段 階で、世襲が可能になる。ここに現代日本の悲劇がある。自民党も民主党も、 世襲議員に対して、何らかの制限を加えるつもりらしいが、やれるものなら、 大いにやるべきだろう。無論、二世であろうと三世であろうと政治家を目指す ことは自由である。百獣の王ライオンは、我が子を谷底に突き落とし、這い上 がってきた子供だけを育てると言うではないか。
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====je pense , donc je suis.=====
文藝評論家・山崎行太郎のコラム。
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 講談社『再現日本史』より。山崎行太郎のコラム『歴史の証言者』



村井喜右衛門(47)
(むらいきえもん)網元


寛政10年(1798)12月29日

「この節、オランダ船の引き揚げ、各々様より諸雑費入用等の件、御尋ねくださいましたことは、承知いたしました。しかしながら、決して雑費にかかわらず、引き揚げが終わってから、御上様より御褒美として、オランダ人が来秋渡来の時、相応の祝儀等をいただくのは別として、私から入用の金銀等は要求キる所存は毛頭ありません」(口上覚)

 オランダ東インド会社が雇ったアメリカ船「イライザ号」が、長<崎を出港してまもなく、嵐に巻きこまれて座礁・沈没した。船内には大量の樟脳と銅が積みこまれていたため、オランダ人は引き揚げを決意。この引き揚げ作業は難事業だったが、それを無償で引き受けたのが、長崎近海に勢力を張る防州(徳山市)の網元・村井喜右衛門だった。(山崎行太郎)











*1148607899*「マンデル・フレミング効果」の政治経済学 -------------------------------------                      新しい経済学理論としての「クラウディングアウト現象」や「マン デル・フレミング効果」が、一時期、日本でも一種の流行思想であったことは言うま でもない。もしこの流行思想の本質が「ケインズ批判」にあるとすれば、そこにケ インズ派とフリードマン等の間に、激しい勢力争いや経済論争が繰り広げられたこ とだろう。フリードマンやマンデルにとつてケインズ経済学は、「乗り越えなけれ ばならない」理論的な壁であり、目標だったはずである。そしてその厳しい「批判・ 超克」の結果が、「クラウディング・アウト現象]や「マンデル・フレミング効果」 と言う理論として結実し、やがてその理論がアメリカの経済学界や論壇、ジャーナ リズムを支配することになったのだろう。  こういう場合、問題の本質が、その結果として誕生し、定式化した理論そのものよりも、むしろ「批判・超克」という乗り越えの作業過程そのものにあるというのは、思想や学問の世界では常識というものだ。むろん、そういう批判・超克の結果として定式化した流行思想に盲目的に飛びつき、安直に追随するのはかなり程度 の低い学者や思想家だ。まともな学者や思想家なら、そういう流行思想ではなく、もっと古典を、あるいは批判・超克のプロセスと論争の中身を重視するだ ろう。我が国の政は、そういうレベルの経済学であり、経済学者たちであったはずだ。  しかるに、マルクス主義崩壊の後に登場したのは、古典(たとえばケインズやマ ルクス…)を、「古い」と言って一刀両断するレベルの経済学者たちであった。彼ら が経済学者や思想家の名に値しないことは言うまでもない。それゆえに、この流 行思想としての日本版「新古典派経済学」の台頭(つまり構造改革派の台頭…)を主 導する経済学者や思想家の顔が、まったく見えてこないのである。言いかえれば、 そこに一流の経済学者や思想家がいないということだ。流行思想に追随するとい うことはそういうことである。 たとえば、「経済白書」にこういう文章が書きこまれている。  ≪現状 (98年夏)では,実質長期金利が歴史的低水準にあり,円も対ドルで 減価しているため,クラウディング・アウト効果,マンデル=フレミング効果によるマイナス面をあまり重視する必要はない。しかし,今後民間需要中心の景気回復過 程への移行が進むに連れて,民間資金需要が強まったり,金融政策スタンスが引き締められれば,長期金利は上昇に転じ,為替レートにも増価圧力が働くと考えられる。その場合には,クラウディング・アウト効果やマンデル=フレミン グ効果により,財政赤字の拡大が長期金利と円レートを上昇させ,投資や純輸出を低めて成長率を低下させる,というマイナス面の効果が出るか否かを考慮に入れる必要があろう。≫  ≪いわゆるバブル期を含むそれ以前の10 年間(83年〜92年)に比べ,総じてみれば財政政策の乗数効果を低下させる方向に変化している可能性があることは否定できない。他方,クラウディング・アウト効果やマンデル=フレミング効果は存在するものの,80年代よりは弱まっており,むしろ財政政策の副作用が弱まる方向に変化しているとみられる。≫  ≪90年代に入って,クラウディング・アウト効果やマンデル=フレミン グ効果 による長期的な景気へのマイナス効果は,むしろ小さくなっているとみられる。≫  この「経済白書」には、頻繁に「クラウディング・アウト効果」や「マンデル= フレミング効果」への言及がある。これを見ると、経済学者やエコノミストだけで はなく、官界や政界も、これらの新しい経済思想に洗脳されていたことがわかる。 むろん、新しい経済学を勉強することが悪いわけではない。しかしただ無批判に勉 強すればいいというものもでもないだろう。彼等がこの「経済白書」で言いたかっ たことは、要するに、「ケインズは古い」「マルクスは古い」ということだっただ ろうと私は推測する。この当時から、いかに経済官僚がうすっぺらな根無し草の思 考を始めたかを示している。ちなみに、この白書の結論は、だから構造改革が必要 だ、となっている。  古典を軽蔑し、「ケインズは古い」「マルクスは古い」というレベルの議論が成 立つのは表層的な歴史主義に毒されている証拠である。たしかに単純に考えただけ でもケインズやマルクスが古いことは言うまでもないことだ。つまりケインズもマ ルクスも、すでに過去の人であるという意味ではケインズ経済学やマルクス経済学が古いのは当然なのだ。しかし、たとえば、ドストエフスキーやトルストイの文学が、未だに「新しい」という言説は文学の世界では常識であるが、もしそういう意味でなら、「ケインズは古い」「マルクスは古い」という議論には疑問符がつくだろう。  ドストエフスキーやトルストイが永遠に「新しい」とすれば、ケイン ズもマルク スも永遠に「新しい」と言うことは不可能ではない。否、ケインズやマルクスこそ、経済学におけるドストエフスキーやトルストイにあたる人物なのだ。「ドストエフ スキーはもう古い」「トルストイはもう古い」という文学者がいたとすれば、彼は 文字通り「文学者失格」だろう。しかるに、経済学において「経済学者失格」「エ コノミスト失格」という議論が起きないのは、何故だろう。それはおそらく昨今の 経済学の世界が、単純素朴な流行思想のレベルで展開しているからである。そこに すべての問題は集約できるだろう。 [PR]動画