■PROFILE■ALBUM■CONTENTS■BBS■ DIARY■ MAIL-MAGAZINE■CRITIQUE■
■MARX=KARATANI■PHILOSOPHY■NOVEL■COLUMN■ECONOMICS■LINK■


テクストとしてのマルクス
ー柄谷行人論序説



■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
テクストしてのマルクス・…柄谷行人を読む(1)
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■


感想・批評・反論などございましたら、気軽にメールをお寄せください。

メールはココから→mail

●柄谷行人は、最初からマルクスにこだわっている批評家である。むろん、マルクスにこだわる思想家・批評家は柄谷行人だけではない。左翼に限定していうなら、マルクスに固執しない人のほうが少ないだろう。しかし、それでも、柄谷行人ほど徹底的に、かつ執拗にマルクスにこだわり続けている思想家・批評家はそんなに多くはない。いや、一部のマルクス研究家を除けば、おそらくほとんどいない。柄谷行人は、ウイトゲンシュタインやソシュールやカントについて論じる時でも、常にマルクスの眼を通して,マルクスとの対比を念頭に入れつつ論じている。

●柄谷行人は、こう言っている。

●≪なぜマルクスを読むのか。あらゆる問題を考えるためには結局一つの「問題」が必要であり、それが私にとってはマルクスだったということである。マルクスにかぎらず、本質的な思想家のテクストは多義的なものである。しかし、今日その多義性がマルクスの場合ほど深刻な問題をもたらしている例はない。≫

●ここに、私は、柄谷行人という批評家の特質がよく出ていると思う。言いかえれば、これが、柄谷行人を、凡庸な「流行思想家」たちと区別するポイントだと言っていい。つまり、柄谷行人は、ソシュールでもフーコーでも、ラカンでもデリダでもなく、あえて手垢にまみれた古いマルクスを武器にする。フーコーやデリダの受売りを専門とする新しい思想家や批評家が、一時的にはもてはやされるとしても、遅かれ早かれ、確実に色褪せて行くことをよく知っているのだ。今、あえてマルクスを語るということは、柄谷行人にとって,一つの大きな思想戦略なのである。

●柄谷行人は、こういうことも言っている。

●≪本書には、マルクス論とともに、日本文学に関するエッセイを入れている。私はそれらをすこしも区別していない。文学はあいまいで、哲学は厳密だなどということはありはしない。哲学も結局は文学、すなわち言葉にほかならない。≫

●これは、『マルクスその可能性の中心』の「あとがき」からの引用だが、これが書かれたのが、「1978」年だということを忘れてはならない。すでに、この頃、「文学批判」や「文学の終焉」が、新しい思想として語られていた時代である。この,哲学と文学を等置する「戦略」こそ、柄谷行人を柄谷行人たらしめるものだ、と言っていい。言いかえれば、柄谷行人ほど文学を擁護し、小説を擁護する批評家はいない。柄谷行人を読むためには、哲学的レペルからではなく、文学的、批評的レベルから読まれるべきだ。柄谷行人は、新しい哲学や理論を文学論や小説論に応用するだけの、つまり哲学や理論を偶像視する、凡庸な啓蒙的な批評家たちとはちがうのである。

●たとえば、柄谷行人は、広松渉を相手に、こういう発言をしている。 <

●柄谷行人は、こういう言い方もしている。

●≪マルクスを読むように、私は漱石を読んできた。つまり、マルクスも漱石も、けっして私が「研究対象」として選んだものではない。厭になれば読まないし、たとえば漱石については、もう書く気がしないと公言していた次期もある。ところが、どういうわけか、そこひに戻ってくる、それらは、私が折りにふれてたちかえり、自分の思想を確認するテクストであるだけではない。むしろ、それらを「読む」ということをおいて、私の「思想」なるものは存在しないのである。しかし、なぜそれらが特権的なテクストとして選ばれているのかは、私にはわからない。≫

●ここでは、やはり「わからない」という言葉に注目するべきだろう。柄谷行人は、「わかっていること」を書き,発表するだけの啓蒙主義者ではない。言いかえれば、自分は「わからないこと」を、まだだれも考えたことのない問題を考えるのだと言っている、と解釈した方がいい。そしてそういう思想家や批評家、あるいは文学者や哲学者こそがマルクスや漱石だと言うことだろう。そこには「矛盾」もあれば「暗視」も「盲目」ある。つまり失敗もあれば間違いもある。それは、絶対に間違うことのない安全地帯で考えることではない。むろん、柄谷行人もまた、そういう場所で考えようとしているのだ。

●ところで一般的には、柄谷行人は、「群像」に連載した『マルクスその可能性の中心』あたりから、急速にマルクスへの傾斜を深めて行ったと見られている。だが実際はそうではない。柄谷行人は、文芸誌に書くようになる以前から,マルクスについて書いていた。

●文壇へのデビュー作を「意識と自然――漱石試論」(「群像」1985年6月号)とすれば、柄谷行人のマルクスの言及は,それ以前から始まっている。たとえば、「東大新聞」の「五月祭論文募集」の記念号に、佳作入選ではあったが、「新しい哲学」という本格的なマルクス論を発表している。むしろ、柄谷行人にとっては漱石論よりもマルクス論のの方が先行していたのである。  

●柄谷行人とマルクスの関係において、無視し得ない人が二人いる。一人は小林秀雄である。

●柄谷行人の小林秀雄へのこだわりもまた執拗である。柄谷行人と言えば、浅田彰や三浦雅士、糸圭秀実なと゛の「柄谷行人エピゴーネン」、「柄谷行人チルドレン」とも言うべき若手批評家たちを誰でも連想するだろう。が、しかし柄谷行人が彼らと決定的に異なるところがある。それは小林秀雄にたいする態度である。 

● 浅田彰の小林秀雄批判は有名だが、糸圭秀実や三浦雅士もたいして違いはない。彼等は、一応、文芸評論家というタテマエ上、仕方なく小林秀雄の批評を理解できるような素振りはしている。そうでなければ文芸評論家としての資質を疑われかねないからだ。だが、本当に小林秀雄を読んでいるのか。本当に小林秀雄を理解しているのか。おそらく、彼等は小林秀雄嫌いであり、小林秀雄のテクストが理解できない人たちである。つまり小林秀雄の批評が読めていない。たとえば三浦雅士は、『青春の終焉』という評論で、「小林秀雄=青春」という図式を作り、あっさりと小林秀雄的批評を葬り去ろうとしている。

● むろん、小林秀雄を批判すること自体が悪いわけではない。問題はその批判の内容だろう。三浦雅士の小林秀雄批判は、「反小林秀雄派」を公言する丸谷才一らの影響を受けてのものだろうが、あまりにも単純過ぎる。もし、その図式と論理で小林秀雄の批評が乗り越えられると考えているとすれば,三浦雅士の批評家としての資質を疑わざるをえない。いずれにしろ、三浦雅士や糸圭秀実らが小林秀雄をどう読んでいるかをそれは象徴している。

● 柄谷行人も、しばしば小林秀雄批判を繰り返している。たとえば,中上健次と組んで試みた『小林秀雄をこえて』という対談は、いうまでもなく小林秀雄を徹底的に批判しようとしたものである。しかし、それほど小林秀雄を批判しながらも柄谷行人は公然と小林秀雄に戻り、小林秀雄的批評の精神の後継者であると告白する。ここに批評家としての資質の決定的な落差がある。 

● 柄谷行人の思想的な仲間たちとも言うべきこれらの後続の文芸評論家たちが、小林秀雄評価という一点において、柄谷行人とは決定的に立場を異にするのは、やはり彼らが小林秀雄を読みこめてていないからだろう。フランスの現代思想を語っているレベルでは見えてこない落差が、小林秀雄という一点で、大きくクローズアップされる。むろん、彼等は、その批評活動の核心的な場面で、小林秀雄を引用するなどということは決してない。  

● 柄谷行人は、その批評活動のもっとも核心的な場面で、必ず小林秀雄を引用し、自分は小林秀雄の批評的精神を受け継いでいる…というような発言を繰り返している。

● たとえば、柄谷行人が最初に本格的にマルクスを論じた『マルクスその可能性の中心』では、冒頭で小林秀雄を引用している。しかも、柄谷行人のマルクス論にとってもつとも重要なテーマを、小林秀雄から拝借していると告白するかのようだ。まず,柄谷行人は、「序章」につづく「第二章」の冒頭で、小林秀雄をこういうふうに紹介する。


≪マルクスは商品の奇怪さについて語ったが、われわれもそこからはじめなければならない。商品とはなにかを誰でも知っている。だが、その「知っている」ことを疑わないかぎり、商品の奇怪さがみえてこないのである。たとえば,『資本論』をふりまわすマルクス主義者に対して,小林秀雄はつぎのように言っている。≫

●次は,柄谷行人が引用する小林秀雄の文章である。

≪商品は世を支配するとマルクス主義者は語る。だが、このマルクス主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、それはリッパな商品である。そして、この変貌は,人に商品は世を支配するといふ平凡な事実を忘れさせる力をもつものなのである。≫

●小林秀雄の『様々なる意匠』の文章を引用した後で、これに対して、柄谷行人はこうコメントしている。

≪むろん、マルクスのいう商品とは、そのような魔力をもつ商品のことなのである。商品を一つの外的対象として措定した瞬間に,商品は消えうせる。そこにあるのは,商品形態ではなく、ただの物であるか、または人間の欲望である。≫

●私の考えでは、ここに柄谷行人のマルクス論のモチーフは、すべて出ている。ということは、柄谷行人のマルクスの原点が、少なくとも小林秀雄のマルクス論と無縁ではない、いやそれどころか、すばりそのものだということを意味していると言って、ほぼ間違いではない。

その証拠に、小林秀雄からのの引用は、『マルクスその可能性の中心』の「あとがき」にも見られる。そこでも、柄谷行人は、かなり決定的なことを言っている。

●≪明らかに、小林秀雄は、マルクスの言う商品が、物でも観念でもなく、いわば言葉て゜あること、しかもそれらの「魔力」をとってしまえば,物や観念すなわち「影」しかみあたらないことを語っている。この省察は、今日においても光っている。それは、『資本論』を言語学的に読もうとする構造主義の試みとは似て非なるものだ。言語学者には言葉に対する驚きがなく、経済学者には商品に対する驚きがない。それらの「魔力」の前に立ち止まったことのない者が、何を語りえよう。したがって、「価値形態論」に関する私の考察は、哲学・言語学・経済学といった区分にはとどまりえないのである。≫(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』)≫

●ここで、柄谷行人は、自分のマルクス論のモチーフが、小林秀雄譲りのもの、あるいは小林秀雄の受売りであると告白しているに等しい。
なぜ、柄谷行人は、こんなにあっさりと小林秀雄の影響を認めてしまうのか。

●おそらくそれは、柄谷行人が、小林秀雄と言う存在を、そうとう高く評価しているということだろう。むろん、柄谷行人は、小林秀雄の影響を認めた上で、自分はさらにその先を行こう…という意志があり、その可能性を信じているのだと言っていい。それでなければ、おそらく小林秀雄の名前は隠すだろう。いずれにしろ、柄谷行人は、小林秀雄と、小林秀雄に始まる日本の文芸批評を高く評価した上で、自分の仕事を、その延長上に位置付けようとしいる。柄谷行人を読むためには、まず何よりも、文学的・批評的視点か必要になるのは、そこに根拠がある。

●ところで、柄谷行人とマルクスを考える時、もう一人受容那人物がいる。もう一人は誰か。
それは、対馬斉という哲学者、マルクス研究家である。<続く>

●柄谷行人は、「群像」新人賞に何回か応募を繰り返し、やがて漱石論「意識と自然」で「群像」新人賞を受賞して文芸評論家としてデビューするわけだが,柄谷行人のマルクスへのこだわりは、それ以前からのものである.。われわれが、普通に知るかのマルクス論は、「マルクスその可能性の中心」だが、そしてそのこだわり方は、決して普通ではない。

柄谷行人は、大学院時代、「東大新聞」の学園祭の懸賞論文に数回,応募しているが、「新しい哲学」というマルクス論もその中に含まれている。

       資料―小林秀雄語録
1―≪吾々にとって幸福な亊か不幸な亊か知らないが,世に一つとして簡単に解決する問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与えられた言葉という吾々の思索の唯一の武器は,依然として昔乍らの魔術を止めない。(中略)而も、若し、言葉がその人心幻惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。≫(「様々なる意匠」)
2―≪脳細胞から意識を引き出す唯物論も、精神から存在を引き出す観念論も等しく否定したマルクスの唯物史観に於ける「物」とは、飄々たる精神ではない事は勿論だが、又固定した物質でもない。≫(「様々なる意匠」)

3―≪明らかに、小林秀雄は、マルクスの言う商品が、物でも観念でもなく、いわば言葉であること、しかもそれらの「魔力」をとってしまえば,物や観念すなわち「影」しかみあたらないことを語っている。この省察は、今日においても光っている。それは、『資本論』を言語学的に読もうとする構造主義の試みとは似て非なるものだ。言語学者には言葉に対する驚きがなく、経済学者には商品に対する驚きがない。それらの「魔力」の前に立ち止まったことのない者が、何を語りえよう。したがって、「価値形態論」に関する私の考察は、哲学・言語学・経済学といった区分にはとどまりえないのである。≫(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』)


┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏
テクストとしてのマルクス(2)  
      ―――柄谷行人を読む

┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏


■■■■■■■■■■■■■■■■■
柄谷行人にとって対馬斉とは何であったのか…。        
■■■■■■■■■■■■■■■■■

 


 柄谷行人とマルクスの関係において、私の見るところ、無視し得ない存在が二人いる。一人は小林秀雄であり、もう一人は対馬斉である。

柄谷行人が、東大新聞に、マルクス論を投稿したのは1967年(昭和42年)だが、それは、その前年の東大新聞懸賞論文で、仲良く佳作入選した対馬斉のマルクス論の影響であろう.。対馬斉は、その頃、マルクス論ばかりを書いていたからだ。

 むろん、当時、すでに「マルクス主義」は思想的、政治的な輝きを失っていた。「今更、マルクスでもあるまい」というムードが支配的であった。

 しかし、この二人は、そういう時代風潮を無視して、マルクス論に熱中する。

 「マルクスは古いか」と問う対馬斉のマルクス論は、マルクスの「理論」を論じたものではなく、マルクスの「実存」を論じたものだった。言いかえれば、マルクスの「実存」こそ、のちに柄谷行人が「可能性の中心」、あるいは「テクストとしてのマルクス」と呼んだものである。

 いずれにしろ、柄谷行人のマルクス論に対する対馬斉の影響は歴然としている。

 では、対馬斉とは何者か。柄谷行人は、対馬斉から何を学んだのか。

 実は、私は、偶然の出会いから、対馬斉という不思議な「老哲学者」と 柄谷行人は、最初からマルクスにこだわっている批評家である。むろん、マルクスにこだわる批評家は柄谷行人だけではない。しかし、柄谷行人ほど徹底的に、かつ執拗にマルクスにこだわり続けている批評家はいない。たしかに、だれでもマルクスについて語る。だが、柄谷行人のようにマルクスのテクストに固執する思想家や批評家はそんなに多くない。いや、一部のマルクス研究者を除けばほとんどいないと言っていい。柄谷行人は、ウイトゲンシュタインやソシュールやカントについて論じる時でも、常にマルクスの眼を通して,マルクスとの対比を念頭に入れつつ論じている。



柄谷行人とマルクスの関係において、私の見るところ、無視し得ない存在が二人いる。一人は小林秀雄である。もう一人は対馬斉である。柄谷行人が、東大新聞に、マルクス論を投稿したのは、その前年の東大新聞懸賞論文で、仲良く佳作入選した対馬斉の影響である.。対馬斉は、その頃、マルクス論ばかりを書いていたからだ。しかし,対馬斉のマルクス論は、マルクスの「理論」を論じたものではなく、マルクスの「実存」を論じたものだった。言いかえれば、マルクスの「実存」こそ、のちに柄谷行人が「可能性の中心」と呼んだものである。柄谷行人のマルクス論に対する対馬斉の影響は歴然としている。

 私は、偶然の出会いから、対馬斉という不思議な「老哲学者」と一緒に酒を酌み交わす仲になった。対馬斉も、私のことを気に入ってくれているようだった。私が出あった頃は、対馬斉は、すでにマルクス論からは離れ、逆に文芸評論などに関心を移していた。名作として知られていた「マルクス存在論」も「マルクスの存在思想」も、すでに捨ててしまったかのように淡々としていた。何回も本にするように勧めたが、関心を示さなかった。ただ、柄谷行人のことは気にしているようだった。東大新聞に投稿を繰り返していた頃、柄谷行人と親しく交流したことを、限りなく誇りに思っているようだった。自分がやりかけたが、途中で放棄してしまった仕事を、「柄谷君がやってくれた…」とでも言うかのように。

 私は、一度だけ、友人たちに誘われて、志木にある対馬斉の自宅にうかがったことがある。その時、対馬斉は、隣りの部屋から、黄ばんだ東大新聞の束を持ち出してきた。そして、うれしそうに見せてくれたのだった.。私が、「柄谷行人論」を書きたいと言っていたのを覚えていてくれたからだった。

 対馬斉は、「これを使いなさい…」と言った。ありがたいことだったが、私は、「それは対馬さんがやった方がいい・・」と遠慮した。しかし、後に、わざわざコピーをとり、人伝にそれを私に差し出したのだ。私は、これを使って、近いうちに「柄谷行人論」を書くことを約束した。

 それから、だいぶ時間が経った。そして対馬斉も亡くなった。しかし、対馬斉が亡くなってしまった今も、それを実現していない。幸いに、対馬斉のマルクス論は、病床にはあったが、まだしっかりしているうちに、『人間であることの運命』というタイトルで作品社から刊行された。対馬斉を敬愛していた岳真也や井沢賢隆の尽力によるものだった。対馬斉は、わずか1冊の著書を遺して逝った。本にすることを拒絶し続けていた「老哲学者・対馬斉」が、初めて手にした自分の著書を、どういうふうに受けとめたか、私は知らない。ただ、内心、ひそかに満足していたことは確かだろう。本にもいろいろな「人生・運命」がある。すぐに消えて行く本もあれば、時間の経過とともに成長して行く本もある。むろん、対馬斉の『人間であることの運命』は後者だろう。これから静かに成長して行く本だろう。柄谷行人の名前とともに…。

 この本の刊行は、静かな波紋を呼んでいる。鎌田哲哉もさかんにこの本について語っている。本にもいろいろな「人生」がある。すぐに消えて行くものもあれば、時間の経過とともに成長して行く本もある。むろん、対馬斉の『人間であることの運命』は後者だろう。これから静かに成長して行く本だろう。

 さて、対馬斉についてはまた論じるとして、当面、問題にしたいのは小林秀雄である。

 柄谷行人は、こういうことも言っている。

 ≪本書には、マルクス論とともに、日本文学に関するエッセイを入れている。私はそれらをすこしも区別していない。文学はあいまいで、哲学は厳密だなどということはありはしない。哲学も結局は文学、すなわち言葉にほかならない。≫

 これも、『マルクスその可能性の中心』の「あとがき」からの引用だが、これが書かれたのが、「1978」年だということを忘れてはならない。すでに、この頃、「文学批判」や「文学の終焉」が、新しい思想として語られていた時代である。この,哲学と文学を等置する「戦略」こそ、柄谷行人を柄谷行人たらしめるものだ、と言っていい。言いかえれば、柄谷行人ほど文学を擁護し、小説を擁護する批評家はいない。柄谷行人を読むためには、哲学的レペルからではなく、文学的、批評的レベルから読まれるべきだ。柄谷行人は、新しい哲学や理論を文学論や小説論に応用するだけの、つまり哲学や理論を偶像視する、凡庸な啓蒙的な批評家たちとはちがうのである。

 柄谷行人の小林秀雄へのこだわりもまた執拗である。柄谷行人と言えば、浅田彰や三浦雅士、糸圭秀実なと゛の「柄谷行人エピゴーネン」、「柄谷行人チルドレン」とも言うべき若手批評家たちを誰でも連想するだろう。あるいは蓮実重彦でもいい。しかし柄谷行人は、批評家の資質として彼らと決定的に異なる。それは小林秀雄にたいする態度に見ることができる。柄谷行人は、自分のマルクス論は、小林秀雄的批評の系譜と無縁ではない、と繰り返し「告白」している。柄谷行人のマルクス論や哲学論文を愛読する者たちには、その事実を忘れているものが多い。なぜか。それは、おそらく柄谷行人の理論だけを読んでいるからだろう。むろん理論的な探求なしに柄谷行人のマルクス論はなりたたない。しかし、理論だけでは語り尽くせないものが、つまり柄谷行人の言う「可能性の中心」なのだ。私は、その「可能性の中心」には、哲学ではなく批評があり、その批評とは小林秀雄的批評にほかならいと思っている。したがって、柄谷行人のマルクス論は、小林秀雄の問題を抜きには語れないのである。 

 柄谷行人はその点で、柄谷行人エピゴーネンとは決定的に異なる。私は、柄谷行人をしばしば批判してきたが、柄谷行人の批評そのものに対しては尊敬を失ったことは一度もない。柄谷行人が文芸評論を捨てて、哲学や政治に関心を移したことも,私は反対ではない。柄谷行人が言うように、マルクスを論じることも、カントやヘーゲルを論じることも批評だからである。私は、いつもそういうレベルから柄谷行人の文章を読んでいる。

 さて、浅田彰の小林秀雄批判は有名だが、糸圭秀実や三浦雅士も、小林秀雄批評家はい、小林秀雄否定という次元では、たいして違いはない。彼等は、一応文芸評論家というタテマエ上、仕方なく小林秀雄の批評を理解できるような素振りはしているだけであり、本当は小林秀雄をまともに読もうとしない人たちであり、むしろ小林秀雄嫌いであり、小林秀雄が理解できない人たちである。つまり小林秀雄の批評がまったく読めていない。むろん、批判も否定も自由である.。

 たとえば三浦雅士は、『青春の終焉』という評論で、「小林秀雄=青春」という図式を作り、あっさりと小林秀雄的批評を葬り去ろうとしている。繰り返すが、小林秀雄を批判すること自体が悪いわけではない。問題はその批判の内容だろう。三浦雅士の小林秀雄批判は、「反小林秀雄派」を公言する丸谷才一らの影響を受けてのものだろうが、あまりにも単純過ぎるのではなかろうか。もし、その図式と論理で、小林秀雄の批評が乗り越えられると考えているとすれば,三浦雅士の批評家としての資質を疑わざるをえない。少なくとも、柄谷行人が理解している問題を理解できていないことは確実である。いずれにしろ、三浦雅士や糸圭秀実らが小林秀雄をどう読んでいるかをそれは象徴している。

 柄谷行人もしばしば小林秀雄批判を繰り返してきた。たとえば中上健次と組んで試みた『小林秀雄をこえて』という対談は、いうまでもなく小林秀雄を徹底的に批判しようとしたものであった。しかし、それほど小林秀雄を批判しながらも柄谷行人は公然と小林秀雄に戻り、小林秀雄的批評の精神の後継者であると「告白」する。ここに批評家としての資質の決定的な落差がある。 

 柄谷行人の思想的な仲間たちとも言うべきこれらの「後続の文芸評論家」たちが、小林秀雄評価という一点において、柄谷行人とは決定的に立場を異にするのは、やはり彼らが小林秀雄的ひの本質が読みこめていないからだろう。フランスの現代思想やマルクス、カント、ヘーゲルなどを語っているレベルでは見えてこない落差が、小林秀雄という一点で、大きくクローズアップされる。むろん、彼等は、その批評活動の核心的な場面で、小林秀雄を引用するなどということは決してない。

 ところが、柄谷行人は、その批評活動のもっとも核心的な場面で、必ず小林秀雄を引用し、自分は小林秀雄の批評的精神を受け継いでいる…という「告白」を繰り返す。

 たとえば、柄谷行人が最初に本格的にマルクスを論じた『マルクスその可能性の中心』では、冒頭で小林秀雄を引用している。しかも、柄谷行人のマルクス論にとってもつとも重要なテーマを、小林秀雄から拝借していると「告白」する。

 ≪明らかに、小林秀雄は、マルクスの言う商品が、物でも観念でもなく、いわば言葉て゜あること、しかもそれらの「魔力」をとってしまえば,物や観念すなわち「影」しかみあたらないことを語っている。この省察は、今日においても光っている。それは、『資本論』を言語学的に読もうとする構造主義の試みとは似て非なるものだ。言語学者には言葉に対する驚きがなく、経済学者には商品に対する驚きがない。それらの「魔力」の前に立ち止まったことのない者が、何を語りえよう。したがって、「価値形態論」に関する私の考察は、哲学・言語学・経済学といった区分にはとどまりえないのである。≫(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』)

 ここで、柄谷行人は、自分のマルクス論のモチーフは、小林秀雄譲りのもの、あるいは小林秀雄の受売りだと告白しているに等しい。なぜ、柄谷行人は、こんなにあっさりと小林秀雄の影響を認めてしまうのか。おそらくそれは、柄谷行人が、小林秀雄と言う存在をかなり高く評価しているということだろう。むしろ、小林秀雄の系譜に連なることを存在証明にしようとしているようにさえ、見える。

 むろん、柄谷行人は、小林秀雄の影響を認めた上で、自分はさらにその先に行こう…という意志があり、その可能性を信じているのだと言っていい。それでなければ、おそらく小林秀雄の名前をそのマルクス論から排除し、隠すだろう。

 小林秀雄の引用は、『マルクスその可能性の中心』の「あとがき」にも見られる。そこでも、柄谷行人は、かなり決定的なことを言っている。

もう一人は誰か。それは、対馬斉という哲学者、マルクス研究家である。

「群像」新人賞に何回か応募を繰り返し、やがて漱石論「意識と自然」で「群像」新人賞を受賞して文芸評論家としてデビューするわけだが,柄谷行人のマルクスへのこだわりは、それ以前からのものである.。われわれが、普通に知るかのマルクス論は、「マルクスその可能性の中心」だが、そしてそのこだわり方は、決して普通ではない。

 柄谷行人は、大学院時代、「東大新聞」の学園祭の懸賞論文に数回,応募しているが、「新しい哲学」というマルクス論もその中に含まれている。

       資料―小林秀雄語録

1―≪吾々にとって幸福な亊か不幸な亊か知らないが,世に一つとして簡単に解決する問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与えられた言葉という吾々の思索の唯一の武器は,依然として昔乍らの魔術を止めない。(中略)而も、若し、言葉がその人心幻惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。≫(「様々なる意匠」)

2―≪脳細胞から意識を引き出す唯物論も、精神から存在を引き出す観念論も等しく否定したマルクスの唯物史観に於ける「物」とは、飄々たる精神ではない事は勿論だが、又固定した物質でもない。≫(「様々なる意匠」)

3―≪明らかに、小林秀雄は、マルクスの言う商品が、物でも観念でもなく、いわば言葉であること、しかもそれらの「魔力」をとってしまえば,物や観念すなわち「影」しかみあたらないことを語っている。この省察は、今日においても光っている。それは、『資本論』を言語学的に読もうとする構造主義の試みとは似て非なるものだ。言語学者には言葉に対する驚きがなく、経済学者には商品に対する驚きがない。それらの「魔力」の前に立ち止まったことのない者が、何を語りえよう。したがって、「価値形態論」に関する私の考察は、哲学・言語学・経済学といった区分にはとどまりえないのである。≫(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』)

4―≪マルクスは理論と実践とが弁証法的統一のもとにあるなどとは説きはしない。その統一を生きたのだ。マルクスのもった理論は真実な大人のもつた理論だ。≫(「マルクスの悟達」)

5―≪僕はマルクス主義文学を信じてはをらぬ。併しマルクス主義が捲き起こした社会小説製作のの野心を信ずる。己れを捨てて他人の為に書くという情熱を信じている。≫

6―≪日本の歴史が今こんな形になつて皆が大変心配している。そういう時,果たして日本は正義の戦いをしているかといい様な考えを抱く者は歴史について何事も知らぬ人であります。歴史を審判する歴史から離れた正義とは一体何ですか。空想の生んだ鬼であります。≫(昭和15年「文藝銃後運動」講演「歴史と自分」)

7―≪歴史とは、人類の巨大な恨みに他ならぬ。歴史を貫く筋金は、僕等の愛惜の念というものであって、決して因果の鎖という様なものではないと思います。それは、たとえば、子供に死なれた母親は、子供の死という歴史事実に対してどういう風な態度をとるか、を考えてみれば,明らかなことでしょう。母親にとって,,歴史事実とは,子供の死という出来事が、幾時、何処で、どういう原因で、どんな条件の下に起こったかという、単にそれだけのものではあるまい。かけ代えのない命が、取り返しがつかず失われていったという感情がこれに伴わなければ、歴史事実としての意味を生じますまい。(中略)母親にとって、歴史事実とは、子供の死ではなく、寧ろ死んだ子供を意味すると言えましょう。(中略)母親の愛情が、何も彼もの元なのだ、死んだ子供を、今もなお愛しているからこそ、子供が死んだという事実があるのだ、と言えましょう。≫

8―≪僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて


≪私は十代に哲学的な書物を読みはじめたころ、いつもそこに「この私」が抜けていると感じて きた。哲学的言説おいては、きまって「私」一般を論じている。それは主観といっても実存といっても人間存在といっても同じことだ。それらは万人にあてはまるものにすぎない。「この私」はそこから抜け落ちている。私が哲学になじめなかった、またはいつも異和を感じてきた理由はそこにあった。≫

柄谷行人 一






back to top page

[PR]動画