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====je pense , donc je suis.=====
文藝評論家・山崎行太郎のコラム。
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 講談社『再現日本史』(全100号)より。山崎行太郎のコラム『歴史の証言者』



村井喜右衛門(47)(むらいきえもん)網元

寛政10年(1798)12月29日

「この節、オランダ船の引き揚げ、各々様より諸雑費入用等の件、御尋ねくださいましたことは、承知いたしました。しかしながら、決して雑費にかかわらず、引き揚げが終わってから、御上様より御褒美として、オランダ人が来秋渡来の時、相応の祝儀等をいただくのは別として、私から入用の金銀等は要求キる所存は毛頭ありません」(口上覚)

 オランダ東インド会社が雇ったアメリカ船「イライザ号」が、長<崎を出港してまもなく、嵐に巻きこまれて座礁・沈没した。船内には大量の樟脳と銅が積みこまれていたため、オランダ人は引き揚げを決意。この引き揚げ作業は難事業だったが、それを無償で引き受けたのが、長崎近海に勢力を張る防州(徳山市)の網元・村井喜右衛門だった。(山崎行太郎)






小坂雄善(かつまさ)

1566年(永禄9)9月11日   

「私は若年の頃から数えきれぬほどの合戦に参加してきたが、永禄九年(一五六六)九月の州(墨)の俣における戦いは、初陣であったからか、格別の記憶がある。敵地へ夜中に侵入し、築城するなどということは、かつてなかったことであった。三ヵ日というものは夜に日をついで、寝ることもなく立ち働いたものだ」(吉田孫四郎著『武功夜話』)

 『武功夜話』は尾張の武士集団であった前野一族の活躍(武功)を、後に武門を離れ前野村(愛知県)に隠棲した小坂雄善・吉田孫四郎親子(前野一族)が、一族の名誉のために書き残したもの。引用文は有名な「墨俣一夜城」建設の場面。小坂雄善は、この戦いに父(小坂雄吉)や伯父(前野長康)らとともに一族総出で参加。ちなみにこの突貫工事を指揮したのは秀吉であった。(山崎行太郎)






小野梓(官吏)
1879年(明治12)5月11日

「聞く政府尚官吏の講談するを禁ずと。是れ鼠輩が予の世間に勢いを得るを畏れ、この姑息の処置を為す。蓋し是れ亡滅の基なる乎。ああ、惜むべし。予輩すら畏ろしくては、最早もてかねるべし。惟ふにこれは井上(毅)氏のこそくなるべし。明日出仕、明了にすべし。勢によっては辞官すべし」(『小野梓日記』)

 この頃は未だ、マスコミが未発達だったために、「演説」が重要な武器となっていた。そこで革新的な知識人や官吏を中心に各種の演説団体が設立され、反政府的な民権思想の普及に力を発揮していた。政府はこの動きを警戒、官吏の演説を禁止した。多数の官吏を擁する演説団体「共存同衆」のリーダー小野梓は、これに怒り辞官を決意するが、馬場辰猪に説得され思いとどまる。(山崎行太郎) 






石坂公歴(自由民権運動家、)

1881年(明治17)12月25日

「明治17年モ近日ヲ以テ終焉ヲ告グ 光陰矢ノ如シ 嘆ズルモ還ラズ 豈勤メズシテ可ナラン哉(中略)人間ノ男児タルモノ奮起セザルベケン哉 縦生 早ニ此ニ感アリ 窃カニ英雄ノ士ヲ訪フテ其ノ胆ヲ試ミ(之)目的ノ資料ニ供セント欲ス 今ヤ六人ノ親朋心友得タリ 且死生共ニ誓フノ士一名ヲ得タリ 心大ニ快ナル処アリ 記シテ以テ後来ノ結果ヲ待ツ焉」(「天縦私記」)

  石坂公歴は三多摩の自由民権運動の青年闘士。北村透谷もその仲間だった。ちなみに透谷の妻石坂ミナは公歴の妹にあたる。ところがこの年、困民党蜂起や加波山事件、秩父暴動などで多数の民権運動家が逮捕処刑され、さらに自由党も解党、民権運動は終焉期を迎えつつあった。傷心の公歴は新天地アメリカへ、透谷も文学へ転身する。(山崎行太郎)






二葉亭四迷(作家、23)

1887年(明治20)8月23日   

「去年一月旧外国語学校を対校せし時、父母親族小生に迫りて官吏たれと強いたれども、我意を張り肯かず、権門に出入りしてお髭の塵を払ふの必要を説きしものも有之候へども、是もまた冷笑して敢て心に留めず、千辛万苦臥薪嘗胆、只管自活の道を求めて止まず、以て今日に至り」(「徳富蘇峰宛書簡」)

 この日、二葉亭は、わずか1歳年上だが、この年3月に、「明治ノ青年」の進むべき方向を提示した『新日本之青年』を刊行、圧倒的な人気を博していた徳富蘇峰邸を、この書簡を持参して訪問した。蘇峰を、「師とし兄とし」「学術文芸の指南役」に…と思ったからであった。二葉亭も、1年前に親の反対を押し切って外国語学校をやめ、この6月に、小説家として自立すべく、小説『浮雲』を世に送ったばかりだった。(山崎行太郎)











田山花袋(作家、17)

1889年(明治22)2月11日

「憲法発布の日、その日の雪を私は覚えている。その前の日から俄かに雪模様になったが、夜は人通りが絶える位に、凄しい大雪になった。『生憎だな、目出度い日だと言うのに。』こう私の母親は言った。(中略)それほどに降り頻った雪もそれでもあくる朝はからりと晴れて、路は泥濘ではあるけれども、下町の方へ祝典を見に出かけて行く人たちが沢山にあった。日本橋、京橋には屋台だの芸者の手古舞だの茶番だのがあって、賑やかだということであった」(『東京の三十年』)

 憲法発布の日は大雪だったが、各地でお祭騒ぎが続いた。近所の町々でも仮装行列などの様々な祝典が行なわれ、皆、出掛けて行ったが、花袋少年だけは、「終日家に引き篭って」「独り静かに、机の上の白い紙に向って、頻りに苦吟した」と言う。(山崎行太郎)














国木田独歩(作家)

1894年(明治27)10月某日

「愛弟、愛弟! 痛快々々! われ実に大日本帝国のために、万歳を三呼せずんばあらず。支那一百余州のために一片の弔辞なくんばあらず、わが第二軍はすでに半ば上陸を了りたり」(「弟への手紙」)

 それまで多くの知識人が、藩閥政府の横暴を厳しく批判していたにもかかわらず、日清戦争が始まるや一転して政府の戦争政策の支持者になり、たちまち熱狂的なナショナリストに変貌した。つまり、国内対立を対外政策に転化し、国民を一致団結させようとする政府の戦略は大成功を納めたと言っていい。従軍記者として軍艦千代田の船上にあった国木田独歩も、大山巌を司令官として編成された第二軍が、遼東半島の花園口へ上陸する模様を、感激しながら書き送った。この手紙は『国民新聞』に発表された。(山崎行太郎)











ベルツ(東大医学部教授、44)

1893年(明治26)3月10日

「学生たちと駒込の天然痘病院を訪れた。醜態だ。四百名の患者に、時としては日に五十名の新患がある有様なのに、これに対して、一部は無経験のものを含めて八名の医師と二十名の看護婦である。冬だというのに、破れ障子のバラック、ひどい! いったい東京市は、病気の市民のために、何をしているというのだ! コレラ、チフス、天然痘の伝染病! それでいて、貧しい人たちを、せめて大切に飼われている馬ぐらいの程度にでも、収容しておける病院の一つすらない」(『ベルツの日記』)

 この頃、衛生行政は警察の管轄下で軽視され、その設備は惨憺たるものであった。コレラやチフス、天然痘等の伝染病が蔓延すると、明治10、20年代の20年間だけでも80万人を越す死者が出た。(山崎行太郎)



















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