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小説家になる方法・入門 2003/9/7
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■先日(9/4)は、中野駅前(徒歩5分)の≪劇場MOMO≫で、三島由紀夫の最高傑作
『サド侯爵夫人』を見てきました。友人の女優・久保亜津子さんの演出ですが、
シンプルな舞台装置での、複雑難解な心理葛藤の長編ドラマは、最高でした。役者
というのはスゴイものですね。あんな長い、難解なセリフを、全部、暗記してしま
うのですから。おかげで、『サド侯爵夫人』というドラマが、よく理解できました。
フランス本国でも、この三島由紀夫の芝居は、≪フランス人にもこれだけの芝居は
書けないだろう≫と、≪絶賛された≫と言うことですが、ナルホドと思いました。
三島フアンならずとも、是非、見ておくべき芝居です。今週の土・日まで、やって
いるそうです。くわしくは、末尾の案内 ≪お知らせ≫ をご覧下さい。時間のあ
る方は、どうぞ…。
■多くの方に登録していただき、ありがとうございます。現在購読者は約2000
名にまでなりました。当分、不定期の発行になりますが、よろしく、お願いします。
今回、初めてお読みになる方は、第一号を、小生のHPか過去ログでお読みください。
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●なぜ、わかりやすい言葉と文体にこだわるのか?●
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■前回は、≪わかりやすい≫、≪やさしい≫言葉や文体による表現を心がけることが、
小説を書く上での第1歩だといいました。しかし、おそらく勘違いする人もいたのでは
ないかと思います。≪やさしい≫、≪わかりやすい≫…表現をしさえすれば、それで
いいのか、と。それなら、内容も、幼稚でやさしいものしか書けないのではないかか、
と。実は、まったく逆なのです。
■むしろ、「難しい問題」や「表現しにくい問題」、あるいは「微妙な問題」、そう
いう問題を追究し、分析し、解明して行く上で、やさしい、わかりやすい言葉や文体
が必要だと、言いたかったのです。つまり、「わかりやすい問題」を、「わかりやす
く書く」ことが目的ではなく、「わかりやすくない難解な問題」を、「わかりやすく
書く」ことが、目的だったのです。したがって誤解のないように、今回は、もう一度、
この問題について考えてみたいと思います。
■たとえば、新聞や論壇誌、学術誌などに掲載されている「政治評論」や「経済評論」
、あるいは「哲学論文」などは、かなり難解な言葉や、重々しい文体で書かれています。
もう、難解な漢字の羅列とその重厚な文体を見ただけで、何か高級で、有り難いものを
手にしたような感じがします。それらは、明らかに文芸誌に掲載されているような小説
や批評の言葉や文体とは異なっています。では、何処が、どう異なるのか。
■文芸評論や小説にあまり関心のない人の中には、政治評論や哲学論文などと比較して、
小説や批評の文章が、あまりにも「わかりやすく」「軟弱」に見えるらしく、よく知ら
ないままに軽蔑し、無視しようとする人がいます。もちろん、それは、その人に文学的、
芸術的な素養や教養がないだけのことで、それは大きな錯覚であり、勘違いです。それ
は歴史が証明しているでしょう。たとえば、三木清という哲学者と、小林秀雄という文
芸評論家を比較してみてください。「小林秀雄全集」は、すでに何回も刊行され、今で
も読まれつづけていますが、三木清全集は、一度は刊行はされましたが、今はほとんど
読まれていません。何故か。
■柄谷行人は、この二人の違いを、こう言って説明しています。
■≪たとえば、三木清と小林秀雄を比べてみればよい。驚くべき秀才の三木清にとって、
西欧の反近代的思想を把握することなど造作ないことであり、しかもたんなる西欧派で
はなく、それを西田幾多郎の哲学と結びつけることすらたやすかった。また彼はたくみ
に文学評論を書いた。しかし、いうまでもなく彼は≪批評家≫ではなかった。彼は哲学
を読み"問題"をつかむことができたけれども、"問題"のなかですでに消去されてしまっ
ているパラドックスを読むことができなかった。≫(柄谷行人『批評とポスト・モダン』)
■≪彼は哲学を読み"問題"をつかむことができたけれども、"問題"のなかですでに消
去されてしまっているパラドックスを読むことができなかった≫とは、どういうことで
しょうか。それは、三木清が、本当の意味での、「難解な問題」や「微妙な問題」を思
考し、表現する言葉と文体を持っていなかったと言うことです。つまり、文章を書くと
いう訓練が、三木清には足りなかったと言うことです。それが、実は、三木清を、「忘
れられた思想家」にしてしまっているのです。
■「文章をいかに書くか」ということこそ、文学者や思想家の命であり、原点だと思っ
ていた小林秀雄は、難解で、生硬な言葉と文体で書く「哲学者たち」(つまり、難解そ
うな政治評論や哲学論文を書く人たち…)を、こう言って批判しています。
■≪例えばあなたの(西谷啓治)の論文でも、吉満君の論文でも非常に難しい。極端にい
ふと、日本人の言葉としての肉感を持って居ない。国語で物を書かねばならんと云ふ宿
命に対して、哲学者たちは実に無関心であると云ふ風に僕等には感じられるのです。如
何に誠実に、如何に論理的に表現しても、言葉が伝統的な日本の言葉である以上、文章
のスタイルの中に、日本人でなければ出て来ない味ひが現はれて来なければならんと思
ふ。さういふ風なことを文学者は職業上常に心懸けて居る。それが文学のリアリティと
いふものに関係して人を動かしたり、或いは動かさなかったりする。その中に思想が含
まれる。≫(『近代の超克』)
■小林秀雄が強調するのは、作家や批評家は、思想より文章を重視する…ということで
す。いい文章の書けない作家も思想家も、一流ではない、ということです。小林秀雄の
文章も難解だと言われますが、いまだに熱心な読者がいるということは、短に難解だと
言うことではないでしょう。わかりやすい書き方をしているがゆえに、難解な問題を書
くことが出来た…ということです。
■私も、これから、一貫して、政治評論や哲学論文よりも小説や批評の方が上だ…と
主張して行きます。なぜ、小説や批評の方が優れているのか。それは、言葉や文体の問
題にかかわってきます。小説や批評においては文体が命です。「何を書くか」よりも、
「いかに書くか」が問題です。政治評論や哲学論文で、文体を問題にする人は、おそら
くほとんどいないでしょう。いたとしても、極めて少ないでしょう。そこが分かれ目で
す。
■今回は、少し回り道をして、やや観念的な、要するに難解なこと(?)…を書きましたが、
次回からはまた、具体的、実践的、技術的な「文章作法」について書いていきます。
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