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笙野頼子の純文学闘争12年史
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■純文学を擁護する!!
「純文学の時代は終った」「純文学と大衆文学に境界はない」「売れない純文学は不良債権だ」…。
こういう議論が文壇内外に蔓延し始めてからすでに久しい。純文学信仰とでも言うべきものは依然として強固に残っているが、純文学否定論はあたかも新しい流行思想のように浸透しつつある。たしかに「本が売れない」という出版社や編集者を取り巻く客観情勢がそういうメロドラマ的な発想を促していることは否定できない。つまり、「本や雑誌が売れない」とすれば、どこかに原因やがあり、また特定の凶悪な犯人がおり、その原因を探り出したり、あるいは特定の犯人を探し出して追放すれば,おそらく問題は解決するだろう、という「水戸黄門」的なメロドラマ的発想である。
しかし、その安直なメロドマ的犯人探しの論理そのものが間違っていることは論を待たない。そんなに明々白々たる原因や犯人がいるわけもなく、問題はもっと深刻なのであり、簡単に解決できるような問題ではないはずなのだ。要するに、「解決不可能な問題」に直面して、その宙ぶらりんの状態に耐えきれずに、安易な解決法に飛びつくのがメロドラマであり、大衆文学である。
それに対して、安易な解決を拒否して、問題をもんだいのままに、その真相に執拗に迫っていくのが純文学であろう。それが、純文学というものがなかなか大衆に受けない理由でもあるが…。大衆は、メロドラマ的解決を望んでおり、それによって社会的なカタルシスを感得するからだ。しかし,逆に純文学というものはそういうメロドラマ的、大衆文学的カタルシスの欺瞞を告発するところに存在意義がある。
たとえば、私が、支持率80パーセントでスターとした小泉純一郎首相の「構造改革論」に最初から批判的だったのは、その手法がメロドマ的、大衆文学的発想に基づいていると判断したからだ。具体的に言えば、小泉純一郎が、城山三郎や池宮彰一郎らと対談した時点で、この男の頭の中は、大衆文学的発想しかない、これでは問題は解決するどころか、かえって問題を混乱させるだけだ…と思ったのである。
むろん、私は、大衆文学や歴史小説やミステリーの存在意義を否定しているわけではない。ただ、それらの社会的な役割と方向性を問題にしているだけだ。
たとえば、小泉純一郎は、自民党内の小泉純一郎批判勢力に「抵抗勢力」というレッテルを貼り、それに対して自分自身をそれと一人で戦う「孤独なヒーロー」にしたてて、大衆の拍手喝采をあびる…という政治手法を使った。それが「水戸黄門」的な大衆娯楽小説的な手法であることは言うまでもない。「小泉チャンバラ劇場」の厚化粧のメッキが剥がれることは、自明だったのである。メロドラマは大衆の無意識の願望を体現してはいるかもしれないが、それは現実ではない。
■田原総一郎のメロドマ的政治学
田原総一郎というテレビ司会屋がいる。彼がウケている秘訣もメロドラマ的手法であることは言うまでもない。田原総一郎の番組が,大衆に受けるのは、いつも犯人や黒幕がおり、それに立ち向かう政治家、あるいはジャーナリストという構図で番組を作っているからだ。それが嘘であることは明白だが、娯楽として政治討論番組を見ている大衆には、そんなことは問題ではなく、次々と犯人が東条氏を仕立てて行けば満足するのである。
抵抗勢力批判から、今度は小泉純一郎批判へ。。。というように犯人はコロコロと変わって行く。それだけのことだ。そしていつも正しいのは、田原総一郎というわけだ。
ところで、田原総一郎が「月刊現代」五月号に、「戦後13…大蔵省の『敗者』が仕掛けた所得倍増論」でも、その通俗小説的な、いわゆるメロドラマ的手法は遺憾なく発揮されている。
たとえば、田原総一郎は、お得意のメロドラマ的手法で、戦後日本の高度経済成長の出発を演出した池田隼人首相の「所得倍増論」のお手柄を、「シベリア帰りのマルキスト」、「人生の敗者」としての「田村敏雄」一人のお手柄に収斂させようとする。
そして敵役,悪役としては、当時の政治家や学者、官僚、エコノミスト,ジャーナリストが登場させられる。まるでチャンバラ映画もどきの「勧善懲悪小説」である。
■桜井よしこの有罪判決に思う。
桜井よしこは、エイズ問題で脚光を浴び、今やジャーナリズムにとってはなくてはならないたジャーナリストの一人だと言っていいが、その桜井よしこが、東京高裁のエイズ取材をめぐる名誉毀損裁判で、有罪の判決を受けたそうである。むろん,相手は安部英(たかし)・元帝京大学教授。判決は、名誉毀損を認めて、桜井よしこに、400万円の支払いを命じる、というものだったらしい。
判決に対して、裁判所には,正義も取材の自由もないのか…と桜井は言っているが、私はこのエイズ取材問題に関しては、必ずしも桜井よしこを支持していない。
私の記憶では、たしかテレビ局のカメラを従えた桜井よしこが、出勤途中の安部教授にマイクを突き付け,執拗に追い掛けまわし、それを無視して立ち去ろうとしてマイクを跳ね除けようとする安部教授の映像が、何位も何回もテレビ画面に流されたと記憶している。まだ、エイズ問題が、大きな社会問題に発展する前のことだ。
私は、あの映像は、明らかにそれ以後のエイズ問題の社会情報的な構造を作ったと言っていいと思う。つまり事件は,安部英教授単独犯的な様相を呈しはじめたからだ。たしかに安部教授に全責任をなすりつけることによって、すっきり解決したかに見えるが、しかし私は、そこに落とし穴があったと思う。事件の当事者の一人であった厚生省官僚・郡司某などは、安部単独犯的なマスコミ報道に隠されて、その後、いつのまにか東大教授に就任している。
つまり、桜井よしこもまた、エイズ問題を、安部英という一人の老人の責任に収斂させ、大衆受けのするメロドラマ的発想にのめりこんでいったジャーナリストの一人なのだ。むろん、その手法が桜井よしこのジャーナリストとしての成功の秘訣でもある。
しかし、いずれにしろ、「わかりやすいメロドラマ的手法」に、落とし穴がある。
最近は、少なくなったが、ミステリー小説を書いている作家がテレビの番組で、事件の犯人探しの「予想」をして失笑を買っていたことがあったが、それもミステリーとは何かを忘れた悲喜劇であった。ミステリー作家こそ、具体的な未解決事件の犯人探しに、ふさわしくない人種はいない。なぜなら、彼らは、解決した事件しか考えていない人種だからだ。犯人が見つからない、あるいは被害者の居場所がわからない…という状況に直面していないのがミステリー作家なのだ。だから、安易に犯人を予想したり,予測して、そのとんでもないハズレぶりが失笑を買うのである。
それを支持するのは、あまり文学とは縁のない連中であるが、しかし困ったことにその流行思想が出版社や編集者たち中に広まっていることである。
何か目新しいことを目指す編集者が安易に飛びつくネタが、この純文学否定論である。あたかも過激な革命哲学でも主張するかのように、純文学否定論を、ぶちあげて、読者を刺激しようとしている。
その風潮に,敢然と立ち向かい、純文学否定論のの嘘と欺瞞を執拗に追究してきたのが、今、もっとも過激な純文学作家の一人である笙野頼子である。しかし,奇妙なことに論敵で,マンガ編集者あがりの評論家・大塚英志が「群像」編集部に食いこみ、連載を続けているのに対して、笙野頼子は「群像」からの出入りを禁止、追放されたのだそうである。私は、その決定自体になんの異論も菜いが、そういうふうに展開する文学・文壇を取り巻く思想状況に違和感を感じざるをえない。出版社や編集部自体が,安易に純文学否定論(純文学・不良債権論)に流れやすい、ということを示している。
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