緊急情報…「山崎行太郎」をネットで「デマ流布/掲示板荒らし」と誹謗中傷する匿名サイト「ソイトゴエス」の正体→フダ付きのネット・ゴロ!!。すでに御存知のことと思いますが、「ヤフー」や「グーグル」で「山崎行太郎」を検索すると、「デマ流布/掲示板荒らし」と誹謗中傷するサイトが出てきます。そのサイトを運営する「ソイトゴエス」と「ネアニアス」の正体は?→実は数年前から「2ちゃんねる」を舞台に「田口ランディ盗作騒動」で暗躍し、匿名恐喝、名誉毀損、人権侵害等を繰り返してきたフダ付きの「ネット・ゴロ」一派です(?) 黒幕は大月隆寛(?) ところが、山崎行太郎が昨年、「あれは盗作とは言いがたい・・・ 」という「田口ランディ擁護論(「大月隆寛への公開状」)」を、月刊論壇誌「自由」で展開した頃から、攻撃の矛先を山崎に向けてきました。彼らは「盗作と創作」の区別も出来ない無知蒙昧な「文学音痴」です。山崎に対する誹謗中傷も、「強盗の居直り」的な、根も葉もない妄想発言ばかりですから無視し、近寄らないでください(笑)。ちなみに田口ランディは、「盗作騒動」を乗り越えて、今年の直木賞候補になっています。(山崎行太郎)

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人を斬るのがサムライならば……
平成・論壇・血風緑
(月刊論壇誌『自由』連載コラム)
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月刊論壇誌『自由』8月号
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大月隆寛への公開状A
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  ■ 今こそ、大月隆寛のネット犯罪を検証せよ!!

 過日、田口ランディの新作『富士山』(文藝春秋)が2004年度後期の直木賞候補になったことがわかった。受賞したのは奥田英明と熊谷達也で、田口ランディは結果的には受賞することはなかったが、しかし受賞そのものは別問題として、候補になったこと自体をまずは喜びたい。これは、数年前から「2ちゃんねる」を舞台に不当な「盗作疑惑騒動」に巻き込まれ、作家生命まで失いかねない状況にあった田口ランディが、作家としてみごとに復権に成功したということを意味するからだ。

 ところで、この「田口ランディ盗作騒動」の仕掛け人の一人が、自称「民俗学者」の大月隆寛であった。大月隆寛は、編著者として、有名無名の素人たちまで巻き込んで『田口ランディ その「盗作=万引き」の研究』(鹿砦社)といういかがわしい本まで刊行している。責任は重大だと思われる。むろん、「田口ランデイ盗作疑惑騒動」が法律的にネット犯罪として告発されるようなことがあれば、真っ先に責任を追及されなければならないのが大月隆寛であることは間違いないだろう。

 大月隆寛は「イラン人質騒動」でも「人質自作自演説」をネットで吹聴し、しかもその上女性人質の自宅(北海道)にまで押しかけ、玄関先で「バカヤロー」と怒鳴って物笑いの種になったそうだが、「田口ランディ盗作疑惑騒動」で大月隆寛がやったことも明らかに言論活動や思想表現の常識を逸脱している。

■山崎マキコの思考奪取と被害妄想

 「盗作疑惑騒動」で重要な役割を演じたのは山崎マキコという女性である。前述の本にも登場し盗作疑惑をネタに田口ランディへの批判を繰り返している。なぜ、彼女は「盗作された・・…」「イジメにあった……」と執拗に告白するのか。それはかつての仲間の一人が突然、作家としてデビューし、しかも爆発的に売れたからであろう。もしその小説が売れなかったら……。

 山崎マキコの文章は、落ちこぼれてしまった自分とその現実を認めたくないと言う「被害妄想」と「思考奪取」の強迫観念によって書かれている。おそらくこういう事件(トラブル)は、これまでもかなり頻繁に起きていたと思われる。文壇や芸能界で成功する人間がいると必ずその周辺にこういう「被害者的人物」が登場し、「思考を奪取された」「利用され、騙された」と一騒動を起こす。ただしこれまではそういうトラブルは表沙汰にはならず、愚痴や陰口、噂話の段階にとどまっているのが普通だった。しかしネットの普及によってこの種の愚痴や噂話が「公的言論」と同じようなレベルにまで到達することになった。陰口が陰口にとどまらなくなったのである。その意味では、山崎マキコも被害者かもしれない。

■匿名の野次馬どもも同罪だ!!

 そもそも大月隆寛らは、小説や芸術作品における「盗作」と「模倣」の違いすら理解していない。小林秀雄やベンヤミン等の発言を待つまでもなく、あらゆる芸術は模倣や複製から始まる。「模倣してみないでどうして創造に到達できるのか」というわけだが、しかし大月隆寛らは模倣や複製、引用、パスティシュ、あるいは他の書物を参考資料として使ったこと等を、即「盗作」と言い、「パクリだ! 泥棒だ! 」と匿名の素人たちといっしょになって大騒ぎする始末である。その文学論(盗作論)はまったく幼稚園児並みの文学論とでも言うしかない。しかも、もっとも低次元の「左翼市民運動」レベルの個人攻撃や、取材と称して自宅や子供の通う幼稚園にまで押しかけ、自宅に不法侵入した挙句、それを写真にとったり、「2ちゃんねる」に書きこんだりして嫌がらせを繰り返す。プライバシーも何もあったものではない。

 むろん、僕は、先月も書いたように、「2ちゃんねる」のような匿名掲示板による批判行為や罵倒行為そのものを否定しているのではない。ジャーナリズムには匿名による表現も必要だ。しかし限度があるだろう。むろん法律違反覚悟、犯罪覚悟の上でやっていると言うなら別である。いずれにしろ、「2ちゃんねる」であろうと匿名であろうと、法律から自由であることは出来ない。「プロバイダー法」等により、匿名でも法律的には逃げることは出来ないだろう。

 ちなみにこの田口ランディ盗作騒動に野次馬的に参加した匿名者たちには、「大月隆寛のような有名人が旗を振っているのだから、すべては許されるはずだ……」という錯覚と思いあがりがあったように思われる。大月隆寛が確信犯だとすれば、彼らは無自覚な犯罪者予備軍ということになろう。しかし、むろん無自覚だったからと言ってすべてが許されるわけではない。

■ランディ自宅に不法侵入した大月隆寛の「子分」!!

 たとえば、星野陽平という人物は、前述の本に、大月隆寛の依頼を受けてランディの自宅に「不法侵入」し、取材を強要している様子を自慢そうに書いている。

 ≪庭で佐川急便の男性が呼びかけていたところに、ランディが出てきた。猿だ。ほどなく記者の存在に気付く。一瞬のうちに驚きの表情が浮かぶ。ランディはカーキ色のパンツに黒っぽいTシャツ。
――田口さん、先ほど取材を申し出た者です。どうしてもお話を伺いたくて、宅配便の方についてここまで来ました。 「なんで、ここに?」/
 驚きの表情は一転して恐怖の表情へと変わる。
――田口さん、取材に応じていただけませんか。
「取材はお断りしましたよ! 出て行ってください!  弁護士に言いますよ!」
――それは、構いません。
「不法侵入じゃないですか」
 恐怖にひきつった表情、悲痛な声に記者の顔も歪む。佐川急便のおじさんは、呆気に取られている。≫
 これが犯罪の証拠と告白でなくてなんであろうか。間抜けな犯罪者たちである。







月刊論壇誌『自由』7月号
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「2ちゃんねる」が日本を救う!
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 ■「長崎少女殺人事件」が暴露したもの。

 長崎県佐世保市の大久保小学校(出口叡子校長、56歳)で起きた同級生殺人事件は、多くの問題をわれわれに投げかけているが、その一つが「ネット」や「チャット」、あるいはもっと具体的に言えば「2ちゃんねる」という問題であることは誰も否定しないだろう。  事件直後から現在まで、新聞やテレビを初めとして、いわゆる識者と言われる人たちの意見の多くも、そこに、つまり「2ちゃんねる」批判に集中している。しかし彼らの多くは、「パソコン」や「チャット」、あるいは「匿名掲示板」そのものをよく理解していないし、ましてや「2ちゃんねる」という「巨大掲示板」が何であるかを知らない。ただ、「噂話」を聞いた程度の知識で頭ごなしに批判しているだけである。
 そもそも、「2ちゃんねる」という掲示板に膨大な人が集い、虚実入り混じった様々な情報が飛び交っているという現実こそが、「2ちゃんねる」の「2ちゃんねる」たる所以である。われわれは、新聞やテレビ、週刊誌の中途半端な二次情報に飽き足らず、より現実や現場に近い「生きた情報」に飢えているのである。「2ちゃんねる」が今や日本の言論を動かすほどの力を持つに至った理由はそこにある。
 新聞やテレビ、週刊誌は問題の本質を見誤り、見当違いの「チャット」批判や「2ちゃんねる」批判でお茶を濁そうとしているが、そのためにもっとも重要な問題であったはずの、事件現場となった学校や家庭の責任問題等が黙殺され、軽んじられている。そのかわりに、あたかも学校や教職員までもが「2ちゃんねる」等の「被害者」であるかのような風潮が蔓延している。

■病院に逃げ込んだ担任教師の無責任。

 この残虐な殺人事件の被害者少女と加害者少女の二人の担任だった35歳の男性教師にいたっては、さっさと病院へ逃げ込み、一部には「担任隠し」だという意見もあるが、いずれにしろ完全に責任問題から逃避することに成功している。「2ちゃんねる」のカキコミによると、この男性教師こそが、一部の弱い生徒への「生徒イジメ」を繰り返し、そういう生徒からの苦情や批判は無視した上に、クラスの荒廃を黙認していた張本人だったらしいのだが……。  
 おそらくこれからこの種の事件が学校で起きると、担任や責任者はすぐ「入院」ということになるだろう。「責任逃れ」のいい前例を作ってくれたものである。
 今や、事件現場である学校や家庭への責任追及の矛先は、「チャット」や「2ちゃんねる」に向けられている。しかも、校長にいたっては、生徒や父兄に、「事件は早く忘れなさい!」「情報はマスコミに洩らすな!」と厳しい「緘口令」(言論統制)をしていると言う。こういうスターリン国家なみの情報統制と情報封鎖で管理しようとするからこそ、「2ちゃんねる」の掲示板が活気付くのである。つまり「2ちゃんねる」は、少年法という悪法による言論弾圧、思想統制、情報封鎖という現実に対する、一般庶民の側からの「異議申立て」の一種なのである。

■「2ちゃんねる」こそ健全なメディアだ!

「少年法」や「人権」「プライバシー」という「観念」の肥大化とともに従来の大手メディアは機能不全に陥っている。少年・少女の人権を守るために作られた少年法が、今や少年・少女を犯罪に巻き込む道具と化しているのだが、誰もそれを批判できなくなっている。少年法という妖怪が一人歩きしているのだ。「人権派弁護士」と言われる連中は、この悪法を利用して、あたかも「被害者少女」に事件の責任があるかのように、「加害者少女」(殺人犯人!)が次から次へと自白する「嘘」と「デッチアゲ」情報を垂れ流している。
 セカンド・レイプという言葉があるが、被害者少女は残酷に刺し殺された上に、悪質な「イジメッ子」だったかのように、本名、顔写真公開の上で断罪され続けている。被害者少女は、少年法という悪法のな名のもとに、一度ならず、二度、三度と殺され続けているのである。
 こういう倒錯した悪法がまかりとおる異常事態にマスコミは無力である。この残虐な「殺人事件」を、あたかも偶然に起きた「小学生の事故死」のように「死亡事件」と呼ぶ新聞まで登場している。そしてそのあげく「チャット」や「2ちゃんねる」への批判でお茶濁している。明らかに問題のスリカエである。

■ 「人権派弁護士」こそ諸悪の根源だ?

 しかし、それにもかかわらず、と言うべきか、それ故にと言うべきか、「2ちゃんねる」の存在意義はますます大きくなっている。そこでは、法律の網をかいくぐってでも、事件の真相を究明しようという人たちが無償で書き込みを続けている。
 今回の加害者の本名や顔写真も、新聞やテレビ、週刊誌よりも先にそこで公開された。それらは明らかに少年法に違反する行為だが、実はこういうカキコミ(公開)自体が少年法自体への批判という意味を持っている。少年法という法律を振りかざして加害者少女を守ろうとする「長崎県法務局」や「人権派弁護士」は、さっそく「2ちゃんねる」の責任者に削除依頼を出したらしいが、ほとんど効果はなかった。一部が削除されてもコピー等の技術によって加害少女の個人情報や顔写真は、すでにネットの世界に爆発的に広まってしまった後だったからだ。
 人の口に戸は立てられない。おそらくパソコンやチャット、あるいは「2ちゃんねる」的な世界にも戸は立てられない。そこを法律で規制していこうとすると言論弾圧、思想統制、情報操作という異常事態を招くだけだろう。「トランジスタ・ラジオ(あるいはテレビ)から革命が起こった」ように、パソコンから革命が起こる時代に来ていると言っていい。
 それを象徴するのが今回の「2ちゃんねる」騒動だった。 











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司馬史観こそ自虐史観である。
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 ■反日的な国民作家・司馬遼太郎

 先日、我が国の「凡愚の宰相」は、所信表明演説で、国民からの「俗受け」をねらってか、今や、「昭和史・自虐史観派」の元凶とも言うべき通俗的国民作家・司馬遼太郎の言葉を引用したのだそうである。「凡愚の宰相」とその取り巻きが、いかに本を読まず、思想や学問に疎いかを象徴する「珍事」であった。

  司馬遼太郎といえば、たいへん甘い、「通俗的」な歴史小説、『竜馬がいく』や『坂の上の雲』で、国民的な人気を得た作家だが、かねがね、そのあまりにもうまく出来すぎた話を聞いたり読んだりするたびに、小生は、この作家の話には、「いかがわしい…」ものがあると思ってきた。晩年は、小説執筆をやめて、もっぱら雑誌のコラムやテレビのトーク番組に出演し、日本を代表する「大知識人」のような態度で、天下国家をおもしろおかしく語っていたように記憶しているが、小生はその種の話も、あまりまじめには聞かなかった。そもそも、歴史的事件や歴史上の人物を基準にして、現代という時代の事件や人物を批判・批評するという姿勢が、小生は嫌いである。

 しかし、司馬のような歴史小説家という人種は、いつのまにかその前提を忘れ、自分が歴史を超越した「歴史的英雄」であるかのように錯覚するらしい。司馬の「うさんくささ」の原因はそこにあった。最近、その司馬遼太郎的「うさんくささ」を受け継いでいるのが城山三郎であろうか…。

 ■少年漫画以下のシロモノでは?

 「文藝春秋」の巻頭を飾り続けた司馬の『この国のかたち』という長期連載コラムも、かなり胡散臭いものであった。自分の国のことを、「この国の…」と呼ぶ言語感覚には畏れ入るが、この言葉が象徴するように、司馬は、「昭和史」や「昭和に生きた日本人」を、冷笑的に見てきた作家である。それに対して、司馬が理想化した日本は、明治維新から日清・日露にいたる近代戦争に勝ち続けた日本であった。つまり、司馬にとっては、成功した歴史だけが語るに足る歴史なのであった。いかにも、通俗的大衆作家らしい通俗史観と言わなければなるまい。こういう通俗的な史観の持ち主が、とんでもない過ちを犯すのは当然であろう。司馬は、昭和史の大事件の一つである「ノモンハン事件」を小説に書こうとして資料を集めるが、膨大な資料を集めた後で断念したと言う。なぜ、断念したのか。
昭和一四年に起こった「ノモンハン事件」(ソ連側から見た「ハルハ河戦争」)とは、日本陸軍が、ロシアの近代化された機械化部隊の前に、無謀な作戦を強行し、あっけなく大敗してしまった、と言われてきた事件(戦争)である。司馬は、その通説を鵜呑みにして、「これは小説にならない…」と判断したのだ。しかも、司馬は、この事件を、日本陸軍の愚劣さを象徴する事件であり、太平洋戦争という暴挙へと突き進む日本軍の無謀な戦争の原点であったと見なす。
 しかし、驚くなかれ。ソビエト崩壊後、ロシア側から公開された公文書・機密文書によると、ノモンハン事件は、必ずしも、日本の一方的な惨敗ではなく、むしろ互角以上の闘いだったということが明らかになった。いや、ソ連側の機密文書を正確に読むと、この事件・戦争におけるソ連側の損害(戦死者25,565人)は、日本側の損害(17、405人)を大きく上回っていた。実は、ソ連軍の大敗北だった…というのが真相に近いというわけだ。(くわしくは、鎌倉英也著『ノモンハン隠された「戦争」』NHK!出版、小田洋太郎・田端元著『ノモンハン事件の真相と戦果-ソ連撃破の記録』有朋書院…などを参照)
 つまり、司馬に、「これは小説にならない…」と思わせた資料とは、独ソ戦を控えて、「ノモンハン事件」の大敗北という事実を隠蔽したいスターリンが展開した国際的なデマ宣伝の陰謀と、満州における不拡大方針をとる日本軍参謀本部の事実誤認に基づく「誤報」だったということである。
 司馬は、なぜ、こんな誤報にもとづくいい加減な資料を鵜呑みにしたのか。それは、司馬の小説の作り方そのものに原因があった、と言わなければならない。司馬にとって、「負けた戦争」は、すべて書くに値しない「愚劣な軍隊」の「無残な戦争」にすぎない。つまり、結果論的に言えば、明らかに「負け戦」だった「大東亜・太平洋戦争」は、小説に書くに値しない愚劣な戦争であったはずだ…という独断と偏見である。
 それにしても、「負け戦は小説にならない…」という司馬の幼稚な文学的センスにはまったく、驚きあきれるほかはない。

 ■司馬遼太郎的「小説」の限界

 司馬は、多くの資料を集めると同時に、事件の現場にいた軍人たちにも取材したようであるが、司馬の「自虐的昭和史・史観」を覆すことはなかった。
 いずれにせよ、司馬には、歴史資料や生存者の発言や記憶を鵜呑みにして、その裏の裏を読む能力が欠如していたというほかはない。司馬の歴史小説が少年漫画以下のシロモノではないか、というのはそういう意味である。
 司馬の歴史観や人物論は、戦後民主主義的な価値観を前提に成り立っている。ロシアやアメリカの科学的な合理主義に対して日本の愚鈍な非合理主義という思考図式である。つまり、司馬史観とは、素朴な「技術合理主義史観」にほかならない。
 ところで、 丸谷才一によると(「ゴシップ日本語論」「文学界」9月号)、司馬は、小林秀雄に対しても批判的だったそうである。むろん、小林秀雄を批判することが悪いというわけではない。ただ、ここまでくれば、司馬遼太郎という作家が、どういう思想的立場の人間だったかは一目瞭然だろうというまでのことだ。司馬に言わせれば、小林秀雄も三島由紀夫も、恐らく「狂人」にすぎなかったのだ。司馬の歴史小説の底の浅さは象徴している。











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「反米保守」は戦後左翼思想の焼き直しである。
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■保守は感性である。

橋本政権が誕生した日、小生は、銀座の三笠会館で、江藤淳さんと対談(インタビュー)していた。話のテーマは、小林秀雄と正宗白鳥の「思想と実生活論争」だったが、長時間の対談であり、しかも時期が時期だっただけに、しばしば政治や政局の話になった。そこで、江藤さんが言われたことで印象に残っている言葉ある。それはこういうものだった。
≪自分の政治評論は、あくまでも文芸評論家の政治評論であり、それは文芸批評の一部である.。政界の裏情報や、国際政治の新しい情報などを掻き集めた政治評論家や政治学者の政治評論とは違う…≫と。
 予想通りの発言で別に驚かなかったが、あれほど政治や政治評論に入れ込んでいた江藤さんの口から、そういう言葉がストレートに出てきたのは意外だった。たしかに、吉田茂批判や宮沢喜一批判、あるいは小沢一郎擁護論から占領政策の検閲問題にいたるまで…、江藤さんが取り組んだ政治評論は、いずれも江藤淳ならではの政治評論ばかりであった。そこには江藤淳という思想家・批評家の資質と才能が遺憾なく発揮されていた。それは容易に余人が代行・反復できるような凡庸なものではなかった。江藤淳の政治評論の特質は、常に肯定・擁護する一面を併せ持った政治評論だったことだろう。そこには現実政治への責任感覚があった。つまり、昨今の保守論壇に氾濫している付和雷同型の軽薄な保守思想家たちとは無縁なものがそこにはあった。逆に、昨今の保守論壇に蔓延しているのは、ステレオタイプ化された言論のオンパレードであり、その必然的な帰結としての保守論壇の「左翼論壇化現象」である。具体的に言えば、保守思想家たちの「集団主義化」「徒党化」「教条主義化」である。そこで失われつつあるのは、いわゆる「保守とは感性である…」という江藤淳的な保守であろう。

■「反米保守」は左翼思想である.。

 たとえば、「反米」「反北朝鮮」「反朝日」「反人権」と二、三回も唱えれば、「あなたも今日から保守思想家…」というような安直な保守思想家の養成システムのようなものができあがりつつあるが、これこそが、戦後日本の思想風土を支配し続けてきた左翼の悪しき思想的システムであった。
 ところで、保守陣営の間で反米派と親米派の対立が激化しているようである。むろん、それは歓迎すべき事態であると小生は思う。言うまでもなく、この対立を露呈させたのは、「9・11テロ」であり、そしてその後のブッシュ政権の「新しい戦争」理論に基づくテロ国家に対する「先制攻撃論」、つまりブッシュ・ドクトリンであった。つまり、アメリカという国家が、その覇権主義的・帝国主義的な国家暴力を前面に打ち出し、戦争と言う過激な選択をした時、それにどう対応するか…という問題によって発生した対立であった。
 たとえば、小林よしのり氏は、「大東亜戦争肯定史観」にもづいて「反東京裁判史観」を強力に主張し、結果的に激しい反米保守派のイデオローグになっている。それを背後で支援しているのが、同じく反米保守の立場に立つ西部邁氏等であろう。
 保守派・民族派が、反米に傾斜しやすいのは仕方がない。それは、きわめて自然な流れである。ソ連邦の解体や東欧の民主化によって、東西対立の構図がくずれ、逆にそれに代わって経済問題という限定はあるものの、新しい対立軸として「日米対立」が表面化し、それが激化するにつれて「親米保守派」が後退し、「反米保守派」が台頭してきたことも当然であった。しかし、小生は、「反米」「反米」「反米」と叫び、アラブ・テロリストへの連帯まで表明するに至った小林よしのり氏等の最近の言説には、微妙な違和感を禁じえない。そこには明らかに思想的錯誤と政治的欺瞞がある。

 ■反米は覇権国家・アメリカへの甘え(依存)だ!

 たしかに「反米保守」「自主独立」「自主防衛」、あるいは「核武装論」などは、政治的論理として見れば、理路整然とした、一貫した思想体系のように見える。しかし、その一見、理路整然としているかに見える,美しい思想体系に欺瞞が隠されている。
 それは、たとえば、戦後左翼の「反戦平和主義」や「自主独立論」、あるいは「人権擁護」や「環境保護」というような、誰もが反対できないような美しい言葉の内包する欺瞞性に通呈するものがある。「自主独立」「主体性の確立」、こういう美しい言葉に潜む自己欺瞞である。
 そして、今、「反米」「反米」という声を耳にする時、小生は、かつての「ベトナム反戦」、つまり「反米的平和運動」を連想する。当時と今とでは、世界の政治状況が違うから、今の反米と当時の反米を同一視することはできないことは確かだ。しかし少なくとも、小生は、今でも単純素朴な反米という言葉には違和感を禁じえない。
 つまり、反米の思想には、安直な「自主独立」幻想がある。日本は独立国家ではない、アメリカの属国だ…という日本属国論もその一種だろう。しかし、彼等の考えるような自主独立国家が、いったい何処かにあるのだろうか。あるいは、そういう自主独立国家が容易に可能なのだろうか。フランスやドイツはそういう国家だとでもいうのだろうか。
 反米=自主独立は美しい言葉である。しかしそこには国家と国家が対立・抗争する国際情況への認識論的錯誤と甘えがある。アメリカと一戦を交える覚悟のないところでの反米も自主独立も、所詮はアメリカという世界の覇権国家への甘えに過ぎない。
 かつて、反米=自主独立を旗印に、「60年安保」闘争を指導した西部邁氏らの世代は、闘争が終ると、競ってアメリカに留学し、アメリカニズムの宣伝係りに変身した過去がある。この事実を忘れてはならない。







 



 
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島田雅彦の反戦平和主義宣言
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■ブッシュ・ドクトリンは正しい。

ジョージ・ブッシュが、とうとう「新しい戦争」を始めた。私は、個人的には、ブッシュは父親と同じように戦争という現実に直面して思考停止に陥っているのではないかと思っていた。つまり、戦争をしかけるタイミングを失している、と。「よみがえる武士道」で、菅野覚明東大助教授は、武士道の本質は、損得計算を抜きに、刀を抜くべき時にタイミングを失することなく素早く抜くことだと言っている。状況分析や後始末のことを考えていると抜くべきタイミングを見失うだけだたけだ、と。
 いずれにしろ、遅ればせながら、ブッシュも天下の宝刀を抜いた。ブッシュを、「阿呆だ…」と言って嘲笑し、愚弄していた人たちも、たとえば何事であれ反対することだけを生き甲斐とするチョムスキーやスーザン・ソンタグのような「常識的変人」や、あるいはいつまでたっても左翼小児病から脱け出せない日本の古典左翼文化人(「新潮」1月号の鼎談。特に西谷修、丹生谷貴志)を別にすれば、砂漠を進軍する長蛇の隊列の映像の前では、一瞬、沈黙せざるを得なかったはずだ。私もしばし沈黙した。来るべきものが来た。これが世界の現実であり、思想闘争の現場であり、歴史的な実在なのだ、と。
 いずれにしろ私は、アメリカ人は健康だと思った。勝つことが正義だ…という価値観を強固な哲学として信じこんでいるからだ。それは、アメリカ人が歴史に参加し、歴史を創造していることを意味する。
 しかし、むろん戦争や革命それ自体に正義や道徳はない。正義や道徳は、彼等が権力を掌握した時にはじめて生まれる。ブッシュの戦争も,一種の秩序破壊である。ブッシュ・ドクトリンとは、テロ戦争と戦うためには先制攻撃も辞せず…という先制攻撃論らしいが、私は、正しいと思う。帝国主義戦争、冷戦、経済戦争、そしてテロ戦争…。ブッシュの戦争論は,決して間違っていない。ブッシュを批判・嘲笑するスーザン・ソンタグやチョムスキーの方が頭が古すぎる。たとえば、専守防衛論は、被害者は正しい、という敗者・弱者の哲学である。

■芸術の本質は戦争と革命である。

 ヘーゲルがナポレオンの軍隊に感動し、ハイデガーがナチスの軍隊に共鳴し、小林秀雄が日本の帝国軍隊に共感したのは、彼らが歴史に対して盲目だったからではない。逆に小市民的な日常性の壁の向こうで、ものごとを深く、本質的に考える人間だったからだろう。彼等も見るべきものを見て感動し共鳴したのだ。たしかにそれは、日常的な、小市民的な価値観や世界観からみればあまりにも残酷で、空恐ろしい凶事ではあるだろう。だが、そこにしか真の現実や実在が顔を出す場所と瞬間はない。むろん、そこに芸術の創造の秘密もある。芸術が戦争や革命と無縁でないのは当然である。戦争や革命は「虚無」を所有することである。小林秀雄も、芸術家はまず何よりも「虚無」を所有する必要がある、と言っている。
 それは、言い換えればニーチェの「超人哲学」とも無縁ではない。ニーチェの言う超人とは、古い価値体系の崩壊と解体に直面した人間が、つまり虚無に直面した人間が、古いイデオロギーや観念にしがみつくのではなく、新しい価値、言い換えれば新しい世界秩序を創造していくことであった。それを現代という時代に置換えれば、古い価値観とは、反戦平和主義であり国連中心主義である。誰もが否定も批判もできないような人畜無害のイデオロギー。
 「9・11」以来、ブッシュは「これは新しい戦争だ…」と言っている。ブッシュが世界中からの批判と罵倒を無視してまでも、強引に宣戦布告する理由がそこにある。反戦平和主義者たちの「お題目」を盲信して、何事も平和的に、対話・協調路線で、穏便に…済まそうとすれば、誰からも批判されることはないだろう。しかし、アメリカの大統領はそれでは勤まらない。激しく流動する現実と闘争を無視して、小市民的な平和主義的な価値体系に安住し、それを手放そうとしない「純粋正義派」の政治家や市民たちこそ「地獄への案内人」なのだ。

■島田雅彦は反戦平和主義者だった?

 言うまでもなく、芸術や哲学は、その実在をとらえ、描くものである。しばしば、それらが一般市民から恐れられたり、嫌われたり、排斥されるのは、そこに原因がある。つまり芸術や哲学は、小市民的な、日常的価値観や世界観と対立する。そもそも、反戦平和主義を信奉する「芸術家」や「哲学者」という存在の方が無意味である。彼等は、芸術的創造のエネルギーを抑圧し、隠蔽し、放棄しているに等しい。
 たとえば、たまたま、島田雅彦のエッセイ(「サンデー毎日」3・30号掲載の「反戦の意志を投票で示す」)を読んで、私は失望・落胆した。島田雅彦も日ごろは反社会的、反小市民的な言動で世間の顰蹙を買う
 作家の一人で、私はその点を高く評価しているのだが、だが今回のエッセイは、あまりにも平凡で、小市民的で、健全すぎる。ニューヨーク同時多発テロに遭遇した坂本龍一の「非戦」と同じぐらいの愚鈍さではないか。皇太子妃をモデルにした小説を書き、発売直前に右翼からの襲撃を恐れて出版中止にした、と大騒ぎするぐらいなら、ブッシュのイラク戦争に対しても、「戦争とはこんににも楽しいものなのか!!」ぐらいの発言をして、世間の良識派から袋叩きにあってもらいたかった。日本を代表するような作家だという自覚があるなら、それぐらいの度胸はあるだろう。島田雅彦も、所詮、人畜無害な「安全な思想家」、つまり「反戦平和主義者」にすぎなかったらしい。
 ところで、私は戦争の映像を見ながら別のことも考えていた。軍事マニアとエコノミトはよく似ているなあ…と。)









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笙野頼子の純文学闘争12年史
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■純文学を擁護する!!

「純文学の時代は終った」「純文学と大衆文学に境界はない」「売れない純文学は不良債権だ」…。
 こういう議論が文壇内外に蔓延し始めてからすでに久しい。純文学信仰とでも言うべきものは依然として強固に残っているが、純文学否定論はあたかも新しい流行思想のように浸透しつつある。たしかに「本が売れない」という出版社や編集者を取り巻く客観情勢がそういうメロドラマ的な発想を促していることは否定できない。つまり、「本や雑誌が売れない」とすれば、どこかに原因やがあり、また特定の凶悪な犯人がおり、その原因を探り出したり、あるいは特定の犯人を探し出して追放すれば,おそらく問題は解決するだろう、という「水戸黄門」的なメロドラマ的発想である。
 しかし、その安直なメロドマ的犯人探しの論理そのものが間違っていることは論を待たない。そんなに明々白々たる原因や犯人がいるわけもなく、問題はもっと深刻なのであり、簡単に解決できるような問題ではないはずなのだ。要するに、「解決不可能な問題」に直面して、その宙ぶらりんの状態に耐えきれずに、安易な解決法に飛びつくのがメロドラマであり、大衆文学である。
 それに対して、安易な解決を拒否して、問題をもんだいのままに、その真相に執拗に迫っていくのが純文学であろう。それが、純文学というものがなかなか大衆に受けない理由でもあるが…。大衆は、メロドラマ的解決を望んでおり、それによって社会的なカタルシスを感得するからだ。しかし,逆に純文学というものはそういうメロドラマ的、大衆文学的カタルシスの欺瞞を告発するところに存在意義がある。
 たとえば、私が、支持率80パーセントでスターとした小泉純一郎首相の「構造改革論」に最初から批判的だったのは、その手法がメロドマ的、大衆文学的発想に基づいていると判断したからだ。具体的に言えば、小泉純一郎が、城山三郎や池宮彰一郎らと対談した時点で、この男の頭の中は、大衆文学的発想しかない、これでは問題は解決するどころか、かえって問題を混乱させるだけだ…と思ったのである。
 むろん、私は、大衆文学や歴史小説やミステリーの存在意義を否定しているわけではない。ただ、それらの社会的な役割と方向性を問題にしているだけだ。
 たとえば、小泉純一郎は、自民党内の小泉純一郎批判勢力に「抵抗勢力」というレッテルを貼り、それに対して自分自身をそれと一人で戦う「孤独なヒーロー」にしたてて、大衆の拍手喝采をあびる…という政治手法を使った。それが「水戸黄門」的な大衆娯楽小説的な手法であることは言うまでもない。「小泉チャンバラ劇場」の厚化粧のメッキが剥がれることは、自明だったのである。メロドラマは大衆の無意識の願望を体現してはいるかもしれないが、それは現実ではない。

■田原総一郎のメロドマ的政治学

 田原総一郎というテレビ司会屋がいる。彼がウケている秘訣もメロドラマ的手法であることは言うまでもない。田原総一郎の番組が,大衆に受けるのは、いつも犯人や黒幕がおり、それに立ち向かう政治家、あるいはジャーナリストという構図で番組を作っているからだ。それが嘘であることは明白だが、娯楽として政治討論番組を見ている大衆には、そんなことは問題ではなく、次々と犯人が東条氏を仕立てて行けば満足するのである。
 抵抗勢力批判から、今度は小泉純一郎批判へ。。。というように犯人はコロコロと変わって行く。それだけのことだ。そしていつも正しいのは、田原総一郎というわけだ。
 ところで、田原総一郎が「月刊現代」五月号に、「戦後13…大蔵省の『敗者』が仕掛けた所得倍増論」でも、その通俗小説的な、いわゆるメロドラマ的手法は遺憾なく発揮されている。
 たとえば、田原総一郎は、お得意のメロドラマ的手法で、戦後日本の高度経済成長の出発を演出した池田隼人首相の「所得倍増論」のお手柄を、「シベリア帰りのマルキスト」、「人生の敗者」としての「田村敏雄」一人のお手柄に収斂させようとする。
 そして敵役,悪役としては、当時の政治家や学者、官僚、エコノミスト,ジャーナリストが登場させられる。まるでチャンバラ映画もどきの「勧善懲悪小説」である。

■桜井よしこの有罪判決に思う。

 桜井よしこは、エイズ問題で脚光を浴び、今やジャーナリズムにとってはなくてはならないたジャーナリストの一人だと言っていいが、その桜井よしこが、東京高裁のエイズ取材をめぐる名誉毀損裁判で、有罪の判決を受けたそうである。むろん,相手は安部英(たかし)・元帝京大学教授。判決は、名誉毀損を認めて、桜井よしこに、400万円の支払いを命じる、というものだったらしい。 
 判決に対して、裁判所には,正義も取材の自由もないのか…と桜井は言っているが、私はこのエイズ取材問題に関しては、必ずしも桜井よしこを支持していない。
 私の記憶では、たしかテレビ局のカメラを従えた桜井よしこが、出勤途中の安部教授にマイクを突き付け,執拗に追い掛けまわし、それを無視して立ち去ろうとしてマイクを跳ね除けようとする安部教授の映像が、何位も何回もテレビ画面に流されたと記憶している。まだ、エイズ問題が、大きな社会問題に発展する前のことだ。
 私は、あの映像は、明らかにそれ以後のエイズ問題の社会情報的な構造を作ったと言っていいと思う。つまり事件は,安部英教授単独犯的な様相を呈しはじめたからだ。たしかに安部教授に全責任をなすりつけることによって、すっきり解決したかに見えるが、しかし私は、そこに落とし穴があったと思う。事件の当事者の一人であった厚生省官僚・郡司某などは、安部単独犯的なマスコミ報道に隠されて、その後、いつのまにか東大教授に就任している。
 つまり、桜井よしこもまた、エイズ問題を、安部英という一人の老人の責任に収斂させ、大衆受けのするメロドラマ的発想にのめりこんでいったジャーナリストの一人なのだ。むろん、その手法が桜井よしこのジャーナリストとしての成功の秘訣でもある。
 しかし、いずれにしろ、「わかりやすいメロドラマ的手法」に、落とし穴がある。
 最近は、少なくなったが、ミステリー小説を書いている作家がテレビの番組で、事件の犯人探しの「予想」をして失笑を買っていたことがあったが、それもミステリーとは何かを忘れた悲喜劇であった。ミステリー作家こそ、具体的な未解決事件の犯人探しに、ふさわしくない人種はいない。なぜなら、彼らは、解決した事件しか考えていない人種だからだ。犯人が見つからない、あるいは被害者の居場所がわからない…という状況に直面していないのがミステリー作家なのだ。だから、安易に犯人を予想したり,予測して、そのとんでもないハズレぶりが失笑を買うのである。
 それを支持するのは、あまり文学とは縁のない連中であるが、しかし困ったことにその流行思想が出版社や編集者たち中に広まっていることである。
 何か目新しいことを目指す編集者が安易に飛びつくネタが、この純文学否定論である。あたかも過激な革命哲学でも主張するかのように、純文学否定論を、ぶちあげて、読者を刺激しようとしている。 その風潮に,敢然と立ち向かい、純文学否定論のの嘘と欺瞞を執拗に追究してきたのが、今、もっとも過激な純文学作家の一人である笙野頼子である。しかし,奇妙なことに論敵で,マンガ編集者あがりの評論家・大塚英志が「群像」編集部に食いこみ、連載を続けているのに対して、笙野頼子は「群像」からの出入りを禁止、追放されたのだそうである。私は、その決定自体になんの異論も菜いが、そういうふうに展開する文学・文壇を取り巻く思想状況に違和感を感じざるをえない。出版社や編集部自体が,安易に純文学否定論(純文学・不良債権論)に流れやすい、ということを示している。






(註・本論は埼玉大学『留学生教育』掲載論文の再録です。)



 
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「西洋事情」から「日本事情」へ   
―福沢諭吉の『西洋事情』を読み直す―
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1.思想家としての福沢諭吉の再発見

 最近、福沢諭吉について論じる人が少なくない。代表的な著述だけでも、丸山真男の『「文明論之概略」を読む』(1987)から、坂本多加雄『新しい福沢諭吉』(1997)、西部邁の『福沢諭吉』(1999)、あるいは北岡伸一『独立自尊 福沢諭吉の挑戦』(2002)と、あげていけばきりがない。むろん、これまでも福沢諭吉を論じる人がいなかったわけではないが、しかし最近のそれは以前のそれとは決定的に異なっているように見える。つまり、これまでの福沢諭吉研究や福沢諭吉論は、福沢諭吉の「身内」とも言うべき慶応義塾関係者や一部の歴史研究者の手になるものがほとんどであった。そこにはアクチュアルな関心はほとんどなかったと言っていい。しかるに最近の福沢諭吉研究や福沢諭吉論は、単なる歴史研究的なものではなく、我が国の論壇やアカデミズムの第一線で活躍する現役の学者や思想家、あるいは評論家たちが、福沢諭吉を「現在の問題」として競って論じているものがほとんどである。戦後民主主義のイデオローグであった丸山真男、ラディカルな保守主義者を自認する西部邁、あるいは「新しい歴史教科書」運動の一翼を担う坂本多加雄。この三人に代表されるように、最近の福沢諭吉への関心は、思想的な革新派と保守派、あるい体制派と反体制派というような党派的次元を超えている。革新派も保守派も、あるいは体制派も半体制派もともに競って福沢諭吉を論じようとしている。何故だろうか。何が、彼らに福沢諭吉を論じさせているのか。それは恐らく、福沢諭吉に対する最近の評価が決定的に変化しつつあることと無縁ではない。むろん、その背景には、現代日本が直面している「第二、第三の開国」とも言うべき国際状況の変化がある。西部邁はこう書いている。

 ≪今回、福沢諭吉の著作のみならず、いくつもの諭吉論を新たに読んだり読み直したりしてみて、背にいささか寒いものを感じた。つまり、かくも平易でかくも明快な諭吉の文章が、かくも長きに及びかくも多くの人々によって、かくも大きく誤解されかくも歪んで曲解されてきたのは、一体全体、どういうことなのか、それはおそらく近現代における知識人の夥しい迷妄や甚だしい怯懦と深く関係しているに相違ないと思わずにおれなかった。≫(『福沢諭吉 その武士道と愛国心』)

 西部邁が言うように、少なくとも思想家としての福沢諭吉は最近まで誤解と曲解の中に深く沈んでいたと言っていい。福沢諭吉という名前の認知度とその社会的、文化的影響力の大きさに比較して、その思想的評価は極めて低いものだった。「俗人」「拝金宗」「洋学先生」等の福沢諭吉批判の言葉がそれを象徴しているが、その中でわずかに正宗白鳥が、内村鑑三について語った折、福沢諭吉の「思想的な新しさ」と対比して、≪彼(山崎注・内村鑑三のこと)は、福沢ほども、時代に対する精神的反逆者ではなかった。彼には、俗人福沢ほども新しさはなかった。≫(『内村鑑三』)という発言が例外的に福沢諭吉を擁護している程度である。正宗白鳥はさらに、夏目漱石や森鴎外の名前をあげて、≪あの頃の秀才には、その頭脳の半面に甚だしい古さが潜んで≫いて、≪本当に頭の新しかった人と云ふと、それより一時代前の福沢諭吉たったひとりであったやうだ。≫(同上)と言う。いかにも正宗白鳥らしい分析であると言わなければならない。むろん、それが学会やジャーナリズムの大勢であることはありえないが、しかしこの正宗白鳥の福沢諭吉論を踏まえた上で、政治学者の坂本多加雄は、≪福沢への批判は、福沢より進んでいると自認する立場ではなく、実は、むしろ、それについていけないという感覚から発せられてきたのではないか。≫(『新しい福沢諭吉』)と言っている。つまり、明治時代以前から一般化している「福沢諭吉批判」の多くは、実は福沢諭吉よりも古い思想的立場から発せられているというわけだ。近代日本の思想家として異常に高い評価を受けている夏目漱石や森鴎外の立場も例外ではないというわけだろう。内村鑑三、夏目漱石、森鴎外等が唱えたのは、そしてそれ故に思想的に高い評価を受けることになったのは、「表層的な改革(物質的な近代化)」ではなく「根底的な文化の改革(精神の西欧化)」であった。そこで、批判の矢面に立たされている「表層的な改革(物質的な近代化)」を主張し、実践した人は誰かと言えば、言うまでもなくその典型的な思想家が福沢諭吉だった。福沢諭吉は、内村鑑三や夏目漱石、森鴎外とは逆に、「精神の西欧化」(キリスト教)を拒絶し、「和魂洋才」を唱えたのである。そこに福沢諭吉の「新しさ」が、あるいは世界の近代史に類を見ない「日本近代化」の成功の鍵があったのだが、それが理解され、思想的評価を受けることは最近までなかった。いずれにしろ、その福沢諭吉が、今、近代日本を代表する思想家として甦り、現代思想のステージに浮上してきつつあるとすれば、そこにいったい何があるのか。なぜ、今、福澤諭吉なのか。

2.そもそも福沢諭吉とは何者だったのか。

 そもそも福沢諭吉とは何者か。思想家なのか。社会運動家なのか。ジャーナリストなのか。あるいは政治家なのか。それとも単なる学校経営者にすぎないのか。おそらくそのどれでもあるが、そのどれでもないように見える。福沢諭吉は単純に決められるような一義的な存在ではない。つまり、福沢諭吉は思想家のように見えるが思想家というにはあまりにも実践的、実務的である。その文章もジャーナリスティックに過ぎ、啓蒙書的色彩が強すぎて、思想的深遠さにとぼしい。では政治家なのかと言うと政治家でもない。福沢諭吉は現実の政治にも深くかかわったが、政治家にも官僚にもならず、政治そのものとは常に一線を画し、一民間人として生きた。福沢諭吉は、いわば「名づけられない曖昧な存在」だった。その存在の曖昧さの中に思想家としての福澤諭吉の秘密は隠されている。     

 ちなみに、最近まで、福沢諭吉の一番大きな仕事は、「慶應義塾」という学校の経営者だと言われてきたように思われる。それは、福沢諭吉に対する評価がどういうものであったかを示している。つまり、つい最近まで、福沢諭吉に対する思想家あるいは学者としての評価はそれほど高くはなかったということであろう。しかし、最近の福沢諭吉への関心は、明らかに学校経営者としてのそれではない。、福沢諭吉は今、思想家として高く評価されつつある、と言っていい。では、なぜ、福沢諭吉は今、思想家として再評価されつつあるのか。福沢諭吉に対する評価の転換は、何を意味するのか。それはおそらく、我が国の置かれている最近の国際環境の変化によるものではなかろうか。具体的に言えば、日本は、今、グローバリゼーションの名の元に、無原則な「第二の(あるいは第三の)開国」とでも呼ぶべき状況に置かれているが、その開国の方針や進路が必ずしも明確ではない。福沢諭吉への再評価の根拠はそこにある。福沢諭吉こそは、かつて、江戸から明治への転換期に、「何を受け入れ、何を受け入れるべきではないのか」という開国の方針と進路を大胆、率直に示し、そしてそれを実践し、実行した人物だった。『西洋事情』という最初の著作がそれを代表していることは言うまでもない。

3.「西洋事情」から「日本事情」へ

 「日本事情」という学問と名称が、江戸時代末期に、実売部数15万部、偽版を合わせると20万から25万部を売り尽くしたと言われ、その著者である青年・福沢諭吉を一躍「時代の風雲児」たらしめることになったベストセラー作品『西洋事情』をヒントにして作られたことは言うまでもないだろう。「西洋事情」から「日本事情」への転換の背景には日本の「近代化」と「高度経済成長」が横たわっている。日本は、その会田に「学ぶ立場」から「教える立場」(「学ばれる立場」)へと進化したのである。しかし戦後の高度経済成長以後に台頭してきた「日本事情」という学問は、当然と言えば当然のことだが、未だに福沢諭吉の『西洋事情』の「十分の一」ほどの知名度も影響力も持つに至っていない。おそらく将来も持つことはないであろう。そこには知名度においても影響力においても雲泥の差がある。なぜか。むろん、時代背景や思想状況が異なるのだから当然のこなのだが、そうとばかり言いきれない面もないわけではない。一言で言えば、それを求める人間の思想的強度が違っている。「日本事情」という学問には、福沢諭吉にあたる人物が、つまり「西洋事情」という学問ジャンルを徒手空拳で築き上げたような主体的な思想家がいない。そこに「西洋事情」と「日本事情」の決定的な差異がある。つまり、その差異は、「西洋事情」は福沢諭吉という個性的な思想家によって内的欲求に基づいて作られたものであるのに対して、「日本事情」が思想主体も不明確なままに、上から強制的に出来あがったという点にあろう。ちなみに福沢諭吉の『西洋事情』という書物が、一般の日本人に対してだけではなく、江戸幕府の将軍や明治新政府の役人たち、あるいは明治時代の思想家たち、あるいはまた全国津々浦々の無名の青年たちに与えた影響は今からは想像を絶するほどに巨大なものだったと思われる。それは本の売上数が示しているだけではない。明治維新という社会改革、政治改革、文明改革は、この福沢諭吉の『西洋事情』という1冊の本のもたらした情報によってそのグランドデザインは作られたと言っても過言ではない。尊王攘夷の志士たちが、明治新政府の実権を把握するや一夜にして、福沢諭吉も驚くほどの「文明開化」路線への急転向をなしえた理由もここにある。西郷隆盛も大久保利通も、この『西洋事情』の愛読者の一人だったのである。彼等が声高に主張していた「尊王攘夷」とは単なる政治的意匠であり、むしろ本音は当初から「文明開化」にあったことは明らかである。

 会田倉吉が、≪あまつさえ、この『西洋事情』こそは大政奉還以来の新政局につねに指導的な役割を果たし、維新政府の原動力となったものであると揚言するものさえいないではない。≫(『福沢諭吉』)と言うのも決して大袈裟な言い方ではない。さらに、≪こんな話も伝えられている。後藤象二郎が二条城で将軍慶喜に大政奉還を進言したとき、慶喜がすでに『西洋事情』を読んでいたのを知って驚いたということであるし、若手の有望な公家として嘱目されていた西園寺公望は十七―八歳のころにこの書を手にして、そこに書かれているような天地に生まれたならば、さぞやおもしろかろうという感じをおこしたと語ったことがあると。≫(同上)とも言っている。

 福沢諭吉もそのことを充分に自覚していたと見えて、その影響の大きさについて、こう言っている。

 ≪右の如く様々に見聞筆記したるは、唯日本に帰り西洋出版の原書を読んで解す可らず辞書を見ても分らぬ事柄のみを目的として、一筋に其方向に心寄せたることなれば、固より事の詳なるを尽すに足らず。都(すべ)て表面一通りの見聞にして極めて浅薄なる記事なれども、此浅薄なる記事が何故に大勢力を得て日本全社会を風靡したるやと云ふに、≫(『福澤諭吉全集第1巻「福沢全集緒言」』)

 福沢諭吉は、ここで、『西洋事情』の内容は、「表面一通りの見聞」を集めただけのものだと言いながら、実は「表面一通りの見聞」を集めただけの本だったからこそ、深く大きな影響力を持ち得たのだ、と言っている。つまり、福沢諭吉は、あえて、「深い」「深遠な」問題を避けて、表面的と思われる西洋文化を選択し、それをわかりやすい俗語を使って、無学な青年たちにも理解できるように書き、出版したのである。正宗白鳥が、福沢諭吉は、内村鑑三だけではなく森鴎外や夏目漱石よりも新しかった、というのはここに根拠がある。ちなみに、福沢諭吉は、森鴎外や夏目漱石のように西洋文化と対面して苦悩したり絶望したりすることはなかった。当然、内村鑑三のように西洋文化の根底に横たわるキリスト教という深層文化と対決したり全面的に屈服したり、またそれを受容したりすることもなかった。いわば、福沢諭吉は、アッケラカンと西洋文化を見聞し、学習し、模倣し、摂取しようとした。それは福沢諭吉の思想家としての未熟の故なのか。それともその福沢諭吉の「軽さ」と「浅ささ」の中にこそ、福沢諭吉という強靭な精神が生きているのか.。

 福沢諭吉は、森鴎外や夏目漱石、あるいは内村鑑三のような「思想家」たちが立ち止まるところにたちどまらなかった。福沢諭吉は、いとも気軽に、日本人にとって必要不可欠な西洋文化の本質の中に立ち入り、それを理解した。つまり、キリスト教を排除し、産業革命、科学革命こそ西洋文化であると分析し、それこそ近代日本にとって必要不可欠な西洋文化と判断した。福沢諭吉が、大胆に西洋文化の本質を見極め、その本質的な西洋文化の中へ立ち入っていく様子を、彼自身、こう書いている。

 ≪翌年春、先ず仏蘭西に着し、夫れより英、蘭、字、露、葡等の諸国を巡回して文明の文物、耳目に新ならざるはなし。扨滞在中色々の人物にも面会して教を聴く中に、先方の人が念入れて講釈する学術上の事は、先方の思ふ程に此方には珍らしからず。≫(同上)

 ここに福沢諭吉らしい「大胆さ」と「軽さ」がよく出ている。福沢諭吉は、蒸気機関、汽船、汽車、電信、等に関する説明を、≪先方の思ふ程に此方には珍らしからず。≫と言い放つ。これこそ、福沢諭吉の健康な精神力、微妙な平衡感覚の現れであろう。実は、福沢諭吉がそう考えたのは、蒸気機関や電信などが無用なのではなく、それらの知識は、すでに蘭学書などの原書を熟読し、勉強済みだったからであった。そこで、先を急がねばならない福沢諭吉は、先方の説明をさえぎり、福沢諭吉自身が今、本当に知りたいことを訊ねる。

 ≪適当の人を見立てて質問を試みるに、先方の為には尋常普通分り切たることのみにして如何にも馬鹿らしく思ふやうなれども、質問者に於ては至極の難問題のみ。≫(同上)

 辞書にも載らないような「平凡で単純な問題」が一番難しい。その問題とは、福沢諭吉にとっては「政治」や「風俗」だった。だから福沢諭吉は、『西洋事情』を政治の話から書き始めるのである。だが、ここで福沢諭吉が何を重視し、何について質問したかは、さして重要な問題ではない。問題は、福沢諭吉の西洋文化に対する姿勢であり、その学習と受容の「構え」である、と私は思う。それは、鋭敏な平衡感覚の持ち主であった福沢諭吉以外の誰も取り得なかった姿勢であり、構えである。正宗白鳥が、福沢諭吉ほどの「新しさ」は、誰も持ち得ていなかった、というのはそのことではなかろうか。

4.深い問題を回避し、浅い問題に固執すること

 徳川幕府の最後の将軍・徳川慶喜も、この『西洋事情』という本を読み、大政奉還を決意したと言われているし、明治新政府の建設者たち、たとえば西郷隆盛や大久保利通もかなり熱心に読んていたと思われる。そして読むだけではなく、具体的な政治改革や社会化国に積極的に応用したと思われる。もっと具体的に言えば、「五か条のご誓文」や「明治憲法」の文言にまでその影響は顕著であると言う。

 しかし、前述のごとく、それだけの影響を各方面に与えた福沢諭吉も、生きている間は、「俗人」とか「拝金宗の教祖」とか言われ、必ずしも高い評価は受けなかった。むしろその思想や行き方が批判され、軽蔑されることが多かった。言い換えれば、福沢諭吉は軽蔑や冷笑を恐れない大胆、且つ強靭な精神力の持ち主だった、と言う事だろう。

 福沢諭吉は「西洋」から学んだが、しかし西洋の文物のすべてを盲信し、盲従したわけではない。福沢諭吉は福沢諭吉なりに、学ぶべきものと学ぶべきでないものとを主体的に取捨選択している。それは福沢諭吉の西洋文化摂取の方法が、単なる西洋文化崇拝者のそれではなく、あくまでも日本という国の開国、発展の道筋をどう取るべきかを深く考えた末のきわめて主体的な取捨選択であったことを示している。つまり、福沢諭吉は、ここで「学ぶべき西洋とは何か」を明確に意識している。おそらく、『西洋事情』という本が、ベストセラーになった所以もそこにあったと思われる。福沢諭吉は、当時の我が国や国民が必要としていたものを、敏感に嗅ぎ当て、それを渡欧体験に基づいて、詳しく、且つわかりやすく論じたのである。 

  ≪洋籍の我邦に舶来するや日既に久し。其の翻訳を経るもの亦少からず。然して窮理、地理、兵法、航海術等の諸学、日に開け月に明にして、我文明の治を助け武備の闕を補ふもの、其益豈亦大ならずや。然りと雖ども余密に謂(おもへ)らく、独り洋外の文学技術を講窮するのみにて、其各国の政治風俗如何を詳にせざれば、仮令ひ其学藝を得たりとも、その経国の本に反らざるを以て、ただに実用に益なきのみならず、却て害を招んも亦計るべからず。抑ゝ各国の政治風俗を観るには其歴史を読むに若くものなし。然れども世人、夫の地理以下の諸学に於て其速成を欲するが為めに、或は之を読むもの甚稀なり。実に学者の欠点と云ふべし。≫(『福澤諭吉全集第1巻「西洋事情巻之一 小引」』)

 福沢諭吉が、その業績と影響力の大きさにもかかわらず、思想家や学者として高く評価されない所以がここらあたりにあったのだろう。福沢諭吉の学問は、きわめて実際的であり且つ具体的であった。福沢諭吉が主眼とするところは、学問的心理の探求でも、学者や思想家として名声を得ることでもなかった。福沢諭吉は、常に国家や国民の将来というものを考えていた。個人の趣味や嗜好に沈潜することは、福沢諭吉のもっとも嫌い、排除したことであった。

 たとえば、福沢諭吉は、西洋文明を高く評価しながらも、その思想的バックボーンとなっているキリスト教を無視し黙殺した。それは、福沢諭吉が儒教的な道徳を「腐儒」と批判し拒絶したことと通低している。つまり、福沢諭吉は、儒教を切り捨てる刀でキリスト教も切り捨てている。言い換えれば、ここで、東洋的道徳も西洋的道徳も排除した上で、福沢諭吉は西洋主義者でも日本主義者でもない「曖昧な存在」として立っている。おそらく明治以後も、それ以前も、思想家や知識人といわれる人々の多くは、そのどちらかに「依拠」し「依存」し、それを思想的立場としてきた。森鴎外や夏目漱石は、日本の近代化は「表層的な近代化」「うすっぺらな近代化」だと批判したが、そのう「すっぺらな近代化」を指導し、推進したのが福沢諭吉だった。したがって福沢諭吉は、誰からも感謝もされず、評価もされず、むしろどちらからも批判され黙殺されてきたのである。

 福沢諭吉には思想も哲学もない。それを拒絶したところに福沢諭吉という存在がある。福沢諭吉は、あくまでも近代西洋文明の成功の根拠とは何かを問題にした。福沢諭吉にとってそれは産業革命に象徴される科学技術であった。福沢諭吉の「実学」とは、実証主義的な科学技術のことである。しかし、科学技術に「惑溺」したわけでもない。  

5.『西洋事情』の文体革命と出版革命

 福沢諭吉の曖昧な存在性は、その文章と文体にも見ることが出来る。福沢諭吉はこの『西洋事情』の出版直前に、その文体についてある忠告を受けている。つまり「漢儒の某先生」に見てもらって、漢文調の格調高いものにしてはどうか、と。そこで福沢諭吉はその忠告にどう答えたか。実は福沢諭吉はそれを無視し、福沢諭吉らしい「俗語文体」で押し通した。それは、福沢諭吉評価が大きく割れる原因にもなった。高尚な知識人的文体を、つまり漢文調の格調高い文体を放棄して、誰にでもわかる俗語的文体を採用したことによって福沢諭吉は、知識人、思想家としての評価を落とされることになったが、それと同時に圧倒的な人気と社会的な影響力をかち取ることになったのである。つまり、そこに福沢諭吉の成功の秘密も隠されている。

 ≪本編の翻訳は今年三月より公務の暇、業を起こし、六月下旬に至り初編初めて稿を脱せり。これを校正する及んで、或る人余に謂へる者あり。此書可は可なりと謂ども、文体或は正邪ならざるに似たり。願くは之を漢儒某先生に謀て正柵を加へば、更に一層の善美を尽して永世の宝鑑とするに足る可しと。≫(『福澤諭吉全集第1巻「西洋事情巻之一 小引」』)

 これは、洋学者・福沢諭吉の周辺の学者や思想家たちが、精神文化的にどういう状況にあったかを象徴的に示している。やはり、福沢諭吉の周辺の文化人たちは、まだ「漢儒」の強い影響下にあったということだ。その中で、福沢諭吉だけが新しい言葉と文体を模索していたことがわかる。『西洋事情』という一冊の本は、その内容だけではなく、その言葉と文体によってもまたきわめて革命的な書物だったのである。では、福沢諭吉は、言葉や文体をどう考えていたのか。福沢諭吉は、文章の目的を次のように述べている。

 ≪余笑て云く、否らず。洋書を訳す唯華藻文雅に注意するは大に翻訳の趣意に戻れり。乃ち此編、文章の体裁を飾らず勉めて俗語を用ひたるも、ただ、達意を以て主とするが為なり。≫(同上)

 福沢諭吉は、単に『西洋事情』という新しい革命的な情報満載の本を書き、出版し、一世を風靡しただけではなく、この文体論、文章論が示すように、のちに「俗語革命」とも言われるようになる「言語革命」をも同時に遂行していた。「俗語」を用いて「達意」を目的として文章を書く。それは漢儒的教養の中にいる人たちから見れば、明かに下品な無教養そのものにしか見えない所業であったが、福沢諭吉にとってはそれこそがまさしく日本の近代化にあたって必要不可欠の文体革命であり、言語革命だった。ここに、近代日本の「口語革命」の第一歩が記されている。のちに二葉亭四迷や山田美妙等によって実行される「言文一致」運動の先駆者が福沢諭吉であった。

 福沢諭吉は、さらに続けて、「漢儒者流」が、なぜ駄目なのかを説明した上で、それを批判し、それとの決別を宣言する。

 ≪然るに今之を某先生に謀るも、徒に難字を用ひ、読者をして困却せしむるの外、決して他事なかるべし。加之(しかのみならず)漢儒者流が頑僻固陋の鄙見を以て原書の情実を誤認むるも亦図る可らず。是余甚たせ欲せざるところなり。≫(同上)

 ここからも、福沢諭吉の「言語革命への意思」が、きわめて自覚的であったことが読み取れる。単なる偶然から言語革命の担い手になってしまったというわけではない。これも、福沢諭吉という思想家がその「新しさ」と「大胆さ」とをいかんなく発揮した場面だろう。『西洋事情』というベセストセラーの意外な側面と言ってもいい。

 福沢諭吉は、この『西洋事情』という本の著作、刊行にあたって、あまりにも売れすぎたために、「偽作」や「盗作」という問題にも直面している。当時は偽作や盗作はごく自然の商習慣の一つであったが、近代人・福沢諭吉はそれを許さなかった。そしてその結果として、「著作権」という言葉と問題を、身を以って提起せざるをえなかった。つまり福沢諭吉は、この本の刊行を契機に出版事業にまで乗り出し、出版制度そのものを大胆に「近代化」した人でもあった。『西洋事情』という本は、その「新しさ」の故に、様々な問題を引き起こし、そして現代にまでつながる「文化革命」をもたらした書物なのである。

 『西洋事情』という一冊の本は、福沢諭吉という不可解な思想家の存在なしには考えられない。つまり、『西洋事情』という本は、一見すると西洋文化や風俗の紹介と解説だけの、単なる情報満載のマニュアル本のように見えるが、実はそうではない。それは、用語や文体から出版、著作権問題にいたるまで、きわめて全体的な文化事業であり、文化革命の試みだったのである。それは、実は、福沢諭吉の全著作活動、全思想活動にも言えることである。したがって、「日本事情」は、福沢諭吉の『西洋事情』の内容を模倣しただけでは無意味、無価値であろう。「日本とは何か」をさぐるべき「日本事情」という学問もまた、全文化事業であるほかはないのではなかろうか。  

 さて、福沢諭吉という、思想家でもジャーナリストでも政治家でも実業家でもなかった、いわゆる「曖昧な存在性」の意義をよく理解していた思想家の一人である小林秀雄は、こんなことを言っている。これこそ福沢諭吉にふさわしい言葉ではなかろうか。

 ≪日本の歴史は、外国文明の模倣によつて始まつたのではない。模倣の意味を問ひ、その答へを見付けたところに始まつた。≫(小林秀雄『考へるヒント』「本居宣長」)



  参考文献。
福澤諭吉『福澤諭吉全集第1巻「福沢全集緒言」』岩波書店、1969-1971。
福沢諭吉『福澤諭吉全集第1巻「西洋事情巻之一 小引」』同上。
正宗白鳥『正宗白鳥全集第九巻「内村鑑三」』 新潮社、1965。
小泉信三『福澤諭吉』 岩波書店(岩波新書)、1966。
会田倉吉『福沢諭吉』 吉川弘文館、1974。
丸山真男『「文明論之概略」を読む』 岩波書店(岩波新書)、1987。
富田正文『考証 福澤諭吉』岩波書店、1992。
坂本多加雄『新しい福沢諭吉』 講談社(現代新書)、1997。
西部邁『福沢諭吉 その武士道と愛国心』 文藝春秋、1999。
  丸山真男著、松沢弘陽編『福沢諭吉の哲学――他六編』 岩波書店、2001。
北岡伸一『独立自尊 福沢諭吉の挑戦』 講談社、2002。

 







  









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